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ヨハネの黙示録 3章20節

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。(ヨハネの黙示録 3章20節)

あなたがキリストを探しているのではなく、キリストがあなたを探しておられるのです。あなたはキリストを見つけませんが、キリストはあなたを見つけます。あなたの信仰はキリストから来ます。キリストが来られないところでは、あなたも外に取り残されます。福音のないところには神様がおられません。そこにあるのは罪と腐敗だけです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネの手紙一 5章10~11節

神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。(ヨハネの手紙一 5章10~11節)

人は自分が恵みに与っている状態にいるかどうか知る必要がない、などという考えを抜き去るように、全力を尽くしましょう。それはこの世で人を最も害する虚妄です。私たちを疑いへと落とし込む説教者たちは、あらゆる点で失格です。私たちは、自分たちには神様がおられ、罪の赦しと永遠の命が神様の御国にある、と確信しなければならないからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネの手紙一 5章4節

神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。(ヨハネの手紙一 5章4節)

キリストがこの世で歩まれた「歴史」を知っていることは信仰ではありません。悪魔どももそれを知っています。「信仰」と私たちが呼ぶのは、聖霊様が与えてくださる新しい光と力のことです。それによって私たちは悪魔の脅迫に打ち勝つのです。この勝利はクリスチャンであることの目印であり、神様から生まれた人たちはそれをもっています。その目印は、クリスチャンを、神様の御言葉に表面的には触れてはいてもその力を一度も経験したことのない偽の子供たちから区別します。
(マルチン・ルター、宝石箱)


信仰は、神様の恵みへの生き生きとした大胆な信頼です。
信仰は、確信に満ちているので、
神様の恵みに頼り切って
千回死ぬのもいとわないほどです。
 
神様の恵みを知って信頼するとき、
人は、神様やすべての被造物に対して、
びくびくせずに心から喜ぶ者にしていただけます。
 
神様の恵みを知ってそれに信頼する人は、
神様への愛から、
神様への賛美のあらわれとして、
無理強いされなくても、
すべてに対してよいことを行いたくなり、
すべてに仕え、
すべてを耐えます。
それゆえ、
行いと信仰を互いに分け隔てるのは不可能です。
それはちょうど
火が燃えていることと火が輝いていることとを
分けることができないのと同じです。
 
私たちには、
信仰よりもよいものをさがす必要がありません。
信仰から目をそらさないようにしましょう。
私たちの信仰が成長して強められていくためです。
なぜなら、
信仰の成長は、
信仰の誕生と同じように、
なくてはならないものだからです。
ただし、
これらすべてのことは神様のみわざなのです。
 
わずかな「ミルクの信仰」は、まだひよわなものです。
本当の試練がやってくると、
それによって信仰が試されますが、
神様から信仰を強めていただく必要があります。
そうしなければ、
そのわずかな信仰は試練に耐えることができません。

信仰が最高に力強く素晴らしい状態にあるのは、
嘆きや苦しみが最も辛い時にほかなりません。

信仰は活きており、働いており、熱心で、偉大なことです。
それゆえ、
それが善いことを行わないでいることは、到底不可能です。
信仰は、
「善いことをどうしてもやらなければならないのか」、
などとぼやいたりはしません。
そんなことを口にする前に、
すでに信仰は善きわざを働きの中で行っているのです。
 
信仰は光です。
理性が暗さを増していき、恥に陥るときに、
この光は私たちを導き、暗闇の中で私たちのために輝きます。
 
私はしばしば二つの信仰について話してきました。
あるタイプの「信仰」は次のようなものです。
あなたはキリストを、
福音全体に描かれ啓示されている通りに信じてはいますが、
あなた自身については、そのようなお方としては信じてはいません。
あなたは、
自分がキリストからすべてをいただいているのか、
それともこれからいただくのか、
確信がもてません。
こうした「信仰」は無きに等しいものです。
それでは、
キリストを味わったり、
キリストに対して「素晴らしいお方だなあ」
という感情や愛をいだいたりすることが、
決してできません。
それは
「キリストを取り扱う信仰」ではありますが、
「キリストへの信仰」ではありません。
そのような「信仰」は
悪魔にも、神様をないがしろにしている者たちにもあります。
あなたの救いは、
あなたがキリストを「義人たちのキリスト」であると
信じることにはありません。
そうではなく、
あなたがキリストを「自分自身のキリスト」として
信じるところにあるのです。
この信仰こそが、
キリストをあなたにとって愛するお方とし、
キリストがあなたの心の中で愛らしく感じられるようにするのです。
その結果、
何の強制もなしに、愛とよい行いとが生れてきます。
もしもそれらが生れない場合には、信仰もそこにはないのです。

神様はその人自身を通して
偉大なみわざを成し遂げたいと望まれている、
という確信を失わないようにしなさい。
 
神様があなたに何を望まれているか、
揺るがず、疑わず、
注意を凝らさなければなりません。
  
あなたがたは信じなければなりません。
こう聞くとあなたがたはすぐに、
「私は自分から信じ始めることにしたい」、
と言うでしょう。
あなたがたは、
信仰とは、
あなたがた自身の仕事や力や行いのことであるかのように思い込み、
あまりにも安易に「行い」に走ってしまいます。
しかし、それではいけないのです。
あなたはこのことを神様にゆだねなければなりません。
自分を信じてはいけないのです。

信仰は
神様からの賜物であり、
神様の力であることを、
まず始めに学びなさい。
それは、
神様おひとりのみに栄光を帰するためであり、
誰も自分の力を誇ることのないためです。

私たちを引き寄せ、御言葉を与え、
御言葉を通して聖霊様と信仰を与えてくださるのは、
天の御父様です。
聖霊様と信仰は、
そのどちらも神様からの賜物です。
私たちの仕事や力の結果ではありません。
 
もしも私たちが神様に、「聖霊様をください」、と祈るなら、
神様は喜んで聖霊様を与えてくださいます。
「御言葉を聞けば、すぐにそれを信じることができる」、
などと思い込み、傲慢にならないように注意しなさい。
さもないと、
「よい行いをするのは難しいけど、信じることはすぐに習得できる」、
などと考えるようになってしまいます。
   
試練もなく、悲しいこともなく、
へりくだる必要もなかった人々は、
信仰を取るに足りないこととみなします。
しかし、
彼らの信仰が試され、
間違った教えを見分ける必要に迫られ、
危機の最中で自分を慰めなければならない時が来ると、
歌は消え、
誰も家でくつろいではいられなくなります。

信じない人は、
「水の流れを渡りたいと思いながらも、
船を信頼するのを恐れているため、
結局自分のいるところにとどまりつづける人」、
に似ています。
信じない人は決して救われません。
なぜなら、
その人は、船に乗り込んで水の流れを渡りたいとは思わないからです。

あなたは、
もしも信じているならば、それについて話すことでしょう。
もしも話すなら、そのために苦しむことになるでしょう。
もしも苦しむなら、それから慰めを受けるでしょう。
なぜなら、
信仰と信仰告白と十字架とは互いにかかわりがあり、
真のクリスチャンに伴うものだからです。
 
信仰はすべてにおいて必要不可欠です。
信仰はすべてを軽く、善く、愛らしいものにします。
牢獄にいても、
死の荒波にさらされていても、
それは同じです。
実際その通りであると、殉教者たちは証しています。

たとえあなたが
全世界の快適な贅沢を味わうことができたとしても、
信仰がなければ、
それは重苦しく、悪く、失望に満ちた人生です。
実際その通りであると、権勢を誇った大金持ちたちは証しています。
彼らの人生はいつでも最も惨めなものでした。

(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)

ペトロの手紙一 4章17~18節

今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。「正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。(ペトロの手紙一 4章17~18節)

すべての肉(つまり人間)はいつか自分に下される「裁き」を聞くことになります。それは、罪の赦しという「恵みの裁き」か、あるいは「滅びの裁き」かのどちらかです。そしてキリストが世に宣告なさった裁きは決して変更されることがありません。「信じて洗礼を受ける者は救われることになります。信じない者は滅びへと裁かれることになります」(「マルコによる福音書」16章16節)。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ペトロの手紙一 3章14節~15節

しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。
心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。
(ペトロの手紙一 3章14節~15節)

不幸な出来事で苦しめられていても、「神様に賛美と感謝あれ!」と言えるときには、私たちは主キリストを心の中で聖とあがめています。私たちは神様を聖なる方として賛美しなければなりません。神様の御言葉を信じるときに、私たちはそうしてます。私たちが正義のために苦しむときに、神様は私たちをお見捨てにはなりません。憐れみをもって私たちと共に歩み、私たちを助け、私たちの敵に復讐してくださいます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ペトロの手紙一 1章24~25節

人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。(ペトロの手紙一 1章24~25節(前半))

この世は、偽りの信仰を誇るか、信仰をもたずに聖でありすぎるか、いつもそのどちらかです。もしも私たちが「信仰と神様の恵み」について説教すれば、もう誰もよい行いについて知りたいとは思わなくなってしまいます。もしも私たちが「よい行い」について話せば、もう誰も信仰について気にかけなくなってしまいます。黄金の中道を歩む者はまれです。その道は真のクリスチャンにとってさえ困難です。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ペトロの手紙一 1章5節より

あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。 (ペトロの手紙一 1章5節より)
 
ペトロはこの御言葉で次のことを意味しています。
信仰は、私たちの中で働く、尊い神様の力であり、
救いにかかわる正しい考え方を私たちにはっきりと与えます。
そのおかげで私たちはこの世のことについて正しく判断してこう言えるのです、
「この教えは正しい、あの教えは間違っている。
この生活は正しい、あの生活は間違っている。
この行いはよい、あの行いは悪い」。
信仰をもっている人が判断することは正しく真理にかなっています。
なぜなら、
そのような人は、だまされることなく、守られており、
すべての教えを裁く者だからです。
それとは逆に、
信仰やこの神様の力がないところには、迷妄と盲目があるのみです。
そこでは、人は行いから行いへと駆けずり回ります。
理性はいつでも行いによって天国に入れてもらえることを願っており、
「ほら、この行いはあなたを天国へと導くよ。
やりなさい。そうすれば救われるよ」、
とささやくからです。
こういうことから、この世に修道院などが生まれてきたのです。
神様は、不信仰な者が行いに頼るのをほうっておかれますが、
一方では、信じている私たちのことを、
地獄へ落ちることなく救われるようにと、
正しい考え方にとどまらせてくださいます。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ヤコブの手紙 5章19~20節

わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。(ヤコブの手紙 5章19~20節)

神様は隣り人に私たちを通して仕えることを望んでおられます。神様は私たちの宣教と生活を通して彼らを信仰に導きたいと思われています。神様は御自分の天使たちを通してそれを行うことができるのに、あえて人間を通して行われるのです。それは、信仰がそれだけいっそう力強くまた素晴らしいものとなるためなのです。もしも天使たちが私たちのところに絶え間なく訪れるならば、信仰はもはや必要ではなくなることでしょう。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヘブライ人への手紙 11章6節

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。(ヘブライ人への手紙 11章6節)

神様が私たちに求めておられ、本物と認められる信仰は、
心から主イエス様に信頼することです。
イエス様は活ける神様の御子、私たちの愛する救い主です。
イエス様は、
私たちに対する言い尽くせないほど大きな愛のゆえに、
私たちの罪のために十字架で死んで、
私たちの義のために死者の中から復活されました。
信仰とは、キリストと、本来キリストのものであるあらゆる義とを、
自分に受け入れることです。
(中略)
このように、キリストを信じる者は、キリストを着ています。
(中略)
この信仰のみが、クリスチャンに喜びと幸せと安全を与え、
クリスチャンを救って、神様の子どもにします。
信仰のあるところには、力強く働きかける聖霊様もおられます。
さらに言えば、信仰とは、
私たちを変えて新しく神様から生む、という、
私たちの中でなされる神様のみわざなのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ヘブライ人への手紙 11章4節

信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。(ヘブライ人への手紙 11章4節)

私たちは、神様を信じてあらゆるよいものを神様から求めつつ行動することよりも素晴らしいやり方で神様に従い仕え敬意を表することはできないし、これよりすぐれたささげものを神様にささげることもできません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヘブライ人への手紙 11章1節

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブライ人への手紙 11章1節)
   
「感情と信仰はまったく別物である」、
と私はしばしば言ってきました。
信仰は、
何も知らず、理性で理解できなくても気にせず、
目をつむって素直に御言葉に従います。
ところが、感情は、
理性で理解できることや、見聞きできることや、さわれるものに頼ります。
このように、感情と信仰とは正反対のものです。
ですから、救いに関しては、
感情から抜け出して、素直に神様の御言葉を聞きなさい。
それを心に入れ、感情に振り回されずに、
たとえあなたが自分の罪を感じている場合にも、
その罪はきれいに拭い取られていることを信頼し続けなさい。
どう感じているか観察したりせずに、
たとえ死や罪や地獄があなたを包囲している場合にも、
実はそれらはすでに敗北していることを堅く信じなさい。
なぜなら、
たとえ罪の感覚がまだ私たちの中に残っていても、
それは私たちを信仰へと追いやり、信仰を強める結果になるからです。
こうして私たちは、
あらゆる感情や理性的な考え方に反して、御言葉を自分のものとして受け入れ、
心と良心をいつもキリストに結びつけるようになるのです。
このように信仰は静かに罪や死や地獄を通り抜けて、私たちを導いていきます。
そしてようやく、私たちはあがないのみわざを自分の目でみるようになります。
そのときはじめて、自分たちが信じてきたこと、
すなわち、死やあらゆる不幸はすでに敗北していることを、
正しくまた完全に知るようになるのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ヘブライ人への手紙 10章39節、11章1節

しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブライ人への手紙 10章39節、11章1節)

私たちは自分の心の中に罪の存在を依然として感じているため、罪が私たちから取り去られていないかのように見えることがよくあります。しかし、私たちは感情や感覚に頼るのを捨てて、単純に御言葉を手にとって、心に書き込み、信頼しなければなりません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

テモテへの手紙一 1章15節

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。(テモテへの手紙一 1章15節)

私は、キリストの御名と力によって自分が罪から自由の身であると宣告されている、と確信しています。このことに堅く信頼している心の持ち主には何も悪いことが起こらないし、滅んでしまうこともありえません。それはちょうど、神様も決して嘘をついたり悪いことをしたりなさらないのと同じです。私はそれをあなたに保証できます。なぜなら、神様御自身がこれをあなたに御言葉において保証されているからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

コリントの信徒への手紙二 6章9~10節

人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。(コリントの信徒への手紙二 6章9~10節)

キリストを信じている者は、貧しさのなかにも豊かさを見、辱めのなかにも栄光を見、嘆きのなかにも喜びを見、死のなかにも命を見、これらを待ち望みつつ、神様の御言葉に密着する信仰によって、これらを自分のものとしています。
(マルチン・ルター、宝石箱)

コリントの信徒への手紙一 15章1~2節

兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。(コリントの信徒への手紙一 15章1~2節)

キリストを信じなさい。そうすれば、あなたは正しい道にいます。キリストにとどまりなさい。そうすれば、あなたは正しい方へと歩みます。終わりまでたゆまずにそれを続けなさい。そうすればあなたは救われます。「私たちが生き続ける限り、キリストの復活と王国にはこの地上に独自の道をもっている」ことを、パウロは私たちに教えようとしています。その道は、御言葉と見えないキリストに頼りきる信仰とによって見出され、罪や死に打ち勝ち、それらに代わって義や命をキリストを通して得るのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

コリントの信徒への手紙一 13章8~10節

愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。(コリントの信徒への手紙一 13章8~10節)

私たちは部分的にまた不完全に理解しています。見ることによってではなく、信仰において理解するからです。私たちは不安定にまた不完全に預言しています。御言葉と説教を通して預言するからです。すべてを理解しようと無理するよりも、自分の無知を告白するほうが安全です。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ローマの信徒への手紙 10章16~17節

しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ローマの信徒への手紙 10章16~17節)

信仰は聴くことから生まれます。人が聴くようになるのは、神様の御言葉とキリストについての宣教を通してです。この宣教が「福音」、すなわち、あらゆる善と救いの始まり、継続、完成です。福音はキリストについてのよき知らせであり、宣教です。キリストは善、愛、恵みそのものです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ローマの信徒への手紙 8章32節

わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。(ローマの信徒への手紙 8章32節)

キリストとそのすべての善性が自分のものになっていることを信じない人は、実はまだ正しくは信じてはいず、クリスチャンでもありません。また、その人の心には喜びがありません。なぜなら、このような信仰のみがクリスチャンに喜びと確かな安心感を与え、クリスチャンを聖霊様のお住い、救いの喜びに満ちた神様の子供にするからです。クリスチャンは、神様の御言葉を真理として受け入れ、自分の不信仰を虚偽と見なすほどに、神様と主イエス様とを敬わなければなりません。そして、この通りになるところでは、聖霊様が御自分の力を示して、信仰のみわざを始めてくださっているのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ローマの信徒への手紙 8章15節

あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。(ローマの信徒への手紙 8章15節)

神様の子供の心の中には勇気に満ちた「アバ(「お父さん」という意味)」という叫びのみが響いている、などと思い込んではなりません。その中では嘆きの叫びも聞かれるのです。これは聖徒が皆、体験してきたことです。罪もまた良心の中で人を絶望に追いやるはずです。しかし、キリストの御霊の叫びは、信頼が疑いに打ち勝つほど圧倒的に力強いはずです。ヨハネがこう言っている通りです、「そこから私たちは、自分たちが真理から出ていることを知るでしょう。そして、私たちは心を神様の御前で安らかにさせるでしょう。たとえ私たちの心が(私たちを)責め立てたとしても、神様は私たちの心よりも大きい御方であり、すべてを御存知だからです」(「ヨハネによる第一の手紙」3章19~20節)。
(マルチン・ルター、宝石箱)


私たちの良心が信じて疑わず、
「罪の赦し」だけでなく「神様の子ども」という身分さえ
自分に与えられていることや、
自分が救われることについて確信をもち、
喜んで神様に祈り、
神様を「愛する私のお父様」と呼ぶことができるときに、
この「アバ、お父さん!」という呼びかけが聞かれます。
この確信を手放してはなりません。
キリストがこれらのことを豊かに備えて、私たちに洗礼を通して賜った、
という慰めを疑い信じないならば、
私たちのために言葉では言い尽くせないほど大いなるみわざを行い、
苦しみを受けられたキリストを侮ることになります。
 
しかし、カインがこれを聞くと歯軋りをし反抗的にこう言います、
「神様、私をこのひどい異端と不遜から守ってください!
私のような貧しい罪人がどうして、「自分は神様の子どもだ」、
などと傲慢にも言えるのでしょうか?とんでもない。
私は謙遜に、「自分は貧しい罪人です」、と告白する者でありたい」。
 
彼らのことはほうっておいて、彼らとかかわらないように気をつけなさい。
なぜなら、彼らは
キリスト教の信仰とあなたの救いにとって、一番たちの悪い敵だからです。
  
もちろん私たちは皆、自分が貧しい罪人であることをよく知っています。
しかしここでは、自分自身や自分の行いを見てはならず、
キリストが私たちにしてくださり、また今もしてくださっていることだけを
見つめるべきです。
ここで私は、自分の人となりについてではなく、
神様の恵みについて話しているからです。
この恵みは私たちよりもはるかに大きいのです。
それは、詩編103編11節によれば、
天が地よりも高く、東が西から離れているよりもさらに大きなものです。
もしもあなたにとって、
自分が神様の子供であることが素晴らしいと感じられるなら、
愛する友よ、
あなたが神様の子供としての身分をいただくために、
神様の御子が来られて、女から生まれ、
律法の下に生活されたことも軽んじないようにしなさい。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ローマの信徒への手紙 8章1節

従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。(ローマの信徒への手紙 8章1節)

信仰は、花嫁をその夫へと結びつけるように、魂をキリストへと結びつけます。キリストのもちものはすべて信仰者の魂のもちものです。信仰者の魂のもちものはすべて、キリストのもちものです。キリストには祝福と救いのみがあり、それらはまた魂のもちものとなります。一方、魂には罪や不義がありますが、それらはこうしてキリストのもちものとなります。これが祝福された「交換売買」です。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者