タグは ‘信仰の戦い’

テモテへの手紙一 6章12節

信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。(テモテへの手紙一 6章12節)

私たちは危険な場所、敵や殺し屋たちの只中に住んでいます。彼らの心の中にあるのは悪いことばかりです。彼らは私たちの宝物を奪い取ろうと脅しています。私たちは瞬時も彼らの危険から解放されることがありません。ですから、誰であれクリスチャンは、直ちにキリストの旗のもとに避け所を求め、一生の間戦い続け、あらゆる方角に向けて敵の監視を続けなければならない、ということを理解しておきなさい。
(マルチン・ルター、宝石箱)

エフェソの信徒への手紙 6章11節

悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。(エフェソの信徒への手紙 6章11節)

福音と聖書をよりいっそう熱心に研究するために、
それを自分の前に置きなさい。
たとえあなたが
それを前からよく知っていたり、しばしば読んできたとしてもです。
悪魔はあなたから
神様の御言葉を学ぶ意欲と研究する時間を与えまいとします。
しかし、それは疑いようもなく
悪魔があなたの心に吹き込んだわなです。
なぜなら、悪魔は、
御言葉を学ぶことがどのような実を結ぶか、
よく知っているからです。
もしも神様の御言葉のそばに留まり、
御言葉と付き合い、
御言葉を自分なりの力で抱きしめるなら、
あなたは、キリストがあなたと共にいて、
心に火をともしてくださることを見ることになるでしょう。
最善のやり方は、
数人で御言葉について話し合い、
御言葉の活きた声を聞くことでしょう。
そうするとき、
あなたがたは大いに強められ、
悪魔は逃げ出すほかなくなります。
そして、あらゆる邪悪な欲望と考えは消え去り、
誰も知らなかったような光と理解力が与えられます。
 
今の私たちの態度のどこがいけないのでしょうか。
それは、
愚かな私たちがこのように尊いもの(御言葉)を部屋の中にしまいこみ、
それを用いようとは考えもしなところです。
悪魔は私たちを騙して、
怠惰という誘惑によって御言葉から引き離そうとします。
そうしなければ、
私たちを御言葉から引き離すことはできないからです。
そういうわけですから、
悪魔の悪質な策略に対して対抗するために
身を整えようではありませんか!
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ガラテヤの信徒への手紙 1章6節

キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。(ガラテヤの信徒への手紙 1章6節)

クリスチャンに対して迫害や破壊によって危害を加えることができないときには、
逆に改善や建設によって危害を及ぼすのが、悪魔ならではの策略です。
それを知っておきましょう。
悪魔は今日まで私たちを暴力によって滅ぼそう、福音の光を消そう、
とやっきになってきましたが、失敗しました。
悪魔は幾人かのクリスチャンを殺しましたが、
彼らは皆、私たちの教えを神様の御心にかなう聖なる教えであると告白しました。
彼らの血によって、教会は滅ぼされるどころか、強められたのです。
悪霊は、このやり方ではうまくいかなかったので、
今度は神様を侮辱する偽教師たちを起こしました。
彼らは、はじめは私たちの教えを認めて、
私たちと心をひとつにしてそれを教えていましたが、
後になって態度を変えました。
彼らは、
「お前たちの使命はキリスト教の初歩を教えることだ。
しかし、我々には神は聖書の真の奥義を啓示した。
だから、我々の使命はこの奥義を世に伝えることなのだ」、
と主張したのです。
このようなやり方で悪魔は、右からも左からも福音の勝利の歩みを妨げようとします。(中略)
それゆえ、私たちは、左右から攻めてくる悪魔の騙しの策略に勝つために、
絶えず祈り、読み、キリストと御言葉に留まらなければなりません。
私たちの戦いの相手は血や肉ではないからです(エフェソの信徒への手紙 6章12節)。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ローマの信徒への手紙 7章19節

わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。(ローマの信徒への手紙 7章19節)

この世で肉の中に生きている限り、
私たちが弱さや欠点から完全に解放されることはありません。
罪や苦しみがまったくなく
義と喜びにのみ満たされている人は誰もいません。
なぜなら、
「罪や悪い欲望と戦いつつも、
できれば感応したくないと思っていることに意に反して感応してしまう」
という点を除けば、
クリスチャンも他の人々と同じように肉と血をもった存在だからです。
このようなクリスチャンは、
自分の感覚に基づいて自分を裁いたり、
「私はもうだめだ」、とあきらめたりはしないようにしましょう。
教会はこの地上で、
弱さ、貧しさ、惨めさ、死、侮蔑、恥辱の中にあって
戦わなければなりません。
たとえ自分の中に
罪、絶望、忍耐不足、罪への堕落がまだあるとしても、
誰も他の人(の欠点)につまずいたり、
自分に絶望するべきではありません。
つまずいたときには、
「つまずいた私を、神様は捨てた」、とは考えず、
心を入れ替え、御言葉を信じて、陥った罪から立ち上がり、
「罪よりも強い恵みの御国に私は住んでいる」、と自分を慰めなさい。
「律法が入り込んできたのは、罪過が増し加わるためでした。
しかし、罪が増し加わったところには、恵みもますます満ち溢れました」
(ローマの信徒への手紙 5章20節)。
この恵みの御国で私たちが賜物としていただく聖霊様は、
新しい勇気と力を与え、弱さの中にある人を強め、
「神様のお住まい」に変えてくださいます。
そこでは、神様の愛が支配しており、
人の弱さを覆い隠し、それはもう罪とはみなされません。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ローマの信徒への手紙 6章4節

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。(ローマの信徒への手紙 6章4節)

キリストの復活を宣教する御言葉のもとに留まっているだけではいけません。
御言葉を聴き、それについて話すことで、
「キリストにお仕えする」ことにはならないのです。
御言葉は、私たちの命を通しても表にあらわれなければなりません。
死んだ人に命についてたくさん話したところで、
命はその死人を助けはしません。
それと同じように、
罪人に義について話しても、
もしもその罪人が罪の中に留まるならば、
義はその罪人を助けはしません。
あるいは、
迷妄に陥っている人に向かって真理について語ったところで、
もしもその迷い人が自分の誤謬と暗闇を捨て去らないならば、
真理はその迷子を助けはしません。

今や福音があきらかにされ、キリストについて世界中で宣教されています。
とはいうものの、
福音の光に照らされてそれをはっきり理解するのは、
福音を受け入れ、信仰の歩みの中でまどろみから覚めた人たちだけです。
眠り込んでいる人たちにとっては、太陽も昼間も役には立ちません。
なぜなら、
彼らには光がなく、
太陽も昼間もないときと同じくらい何も見えてはいないからです。

人がパン種をパンの生地から分けることができないのと同様に、
悪魔はキリストを教会から分けることができません。
生地はパン種によってすでに膨らんでいます。
悪魔にはパン種を生地から分けることが許されていません。
悪魔がそれを煮ようが焼こうが焦がそうが洗おうが、
パン種なるキリストはいつも生地の中におられ、
終わりの日までそこに留まりつづけています。
そうして、ついにはすべてがパン種によって膨らみます。
生地のごく小さな部分も含めて、膨らまないところはなくなります。

「古い人」の心の思いが死んだ後、
「新しい人」の命全体とあらゆる力とは、
その変化に従って柔軟に曲げられ変えられていかなければなりません。
たとえば蛇は、自分の古くなった皮を脱ぎ捨てるために窮屈な穴をさがします。
そして、それを通り抜けることで皮を脱ぎ、穴の外に捨てます。
それと同じように、人間もまた、
福音に対して降伏し、
神様が嘘をつくことはありえない、と信頼しつつ、
福音の約束の中に入り込まなければならないのです。
このようにして人は「古い皮」を脱ぎ捨てます。
自分の光や、自分の意見や、自分の意志や、
自分の愛や、自分の欲望や、自分の話や、自分の活動を
「外」に捨て去ります。
そうして人はまったく新しい人に変わるのです。
この「新しい人」は、今までとは違うやり方で、
裁き、決断し、意志し、望み、話し、
考え、愛し、欲し、計画し、影響を与えます。

聖霊様はキリスト信仰者に与えられていますが、
それは、聖霊様が私たちの心の中の愚かな考えと戦ってくださるためです。
「愚かな考え」とは、義を拒絶する考えのことです。
この「義」とは、
神様が(イエス様の十字架のみわざのゆえに)
私たちを受け入れてくださる根拠であり、
私たちの信仰を深めるために用いてくださるものです。
それからさらに聖霊様は、
私たちの霊や魂や身体が、「聖化」の中で、
日に日に磨きがかけられ成長していくように、
私たちを祈りやあらゆるよいわざへと励ましてくださいます。
 
私たちは、神様の律法を本来なら完全に守るべきであるのに、
実際はそうできません。
救いの恵みの御国では、そうした不完全さについて、
私たちはキリストによって、罪の赦しをいただきます。
しかし、それとともに私たちにはそのとき聖霊様が与えられます。
この方は、私たちの中に
神様の御命令に従おうとする新しい意欲と愛を燃やしてくださいます。
これは救いの恵みの御国で始まり、「最後の日」に至るまで続いていきます。
そしてその日には、私たちはまったく完全な者になります。

絶望の中で、私たちは希望をもち続けなければなりません。
なぜなら、恐れは絶望の始まりにほかならないし、
希望は救いの始まりにほかならないからです。
相戦っているこれら二つ(恐れと希望)は、
いやおうなく私たちの中に存在し続けます。
私たちの中には相戦っている「古い人」と「新しい人」がいるからです。
「古い人」は恐れを抱き、絶望に陥り、死ぬほかありません。
「新しい人」は希望を抱き、安定して、成長していくことになっています。
これら二人の「人」は今も一緒に同じ人間の中に存在しており、
それゆえ、一緒に同じ神様のわざの中にいます。
彫刻家は、不要な部分の材料を砕いて除去することで、
造ろうとしている像をより美しくしていきます。
それと同じように、
(神様への正しい)畏れは「古い人」なるアダムを砕いて死に至らせます。
それによって、「新しい人」を形作る希望が成長していきます。

再び生まれて御霊と恵みの中で新しく創造されてはいない人たちは、
神様とその栄光を知ることが決してできません。
 
十字架につけられたキリストを知ることを学びなさい。
そして、
「主イエス様、あなたは私の義です。でも、私はあなたの罪です」、
と言うことを学びなさい。

もしも私が神様を心の底から魂の限りを尽くして愛するなら、
私の目は冷淡ではないはずですし、
私の舌は悪い言葉を一言も口にしないはずですし、
私の手や足や耳は怒りのそぶりも見せないはずです。
それどころか、私そのものが、
外的にも内的にも、足の先から頭のてっぺんまで、
愛の中を歩み、神様を抱きしめ、敬うことでしょう。
  
神様を畏れ信仰の中で生きる人、
神様が与えてくださることに深い信仰の中で満足し、
それを神様の中で正直に保ち、
誰にも悪いことや損害を与えない人は、
真の意味で「豊かな」人です。
そのような人は、
貧しさの中でも「最高のもの」をもっています。
それは、神様の祝福です。

(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)

ヨハネによる福音書 5章14節

(イエスは言われた)「もう、罪を犯してはいけない。」(ヨハネによる福音書 5章14節)

キリストは御自分のみわざによって、
私たちのために救いの恵みを確保してくださったばかりではなく、
聖霊様の賜物も備えてくださいました。
それは、
私たちが罪の赦しをいただくだけではなく、
罪を行うことを止めるようになるためでもあるのです。

主なる神様、
罪が赦されているだけでは、十分ではありません。
私は、罪が完全に消し去られ、死に絶え、
埋葬されることを、望んでいます。
 
パウロは、
自分自身の中にも、またすべてのクリスチャンの中にも、
まだ「霊の汚れ」(神様についての間違った思い込みなど)や、
「肉の汚れ」(悪い欲望など)が残っていること、
それゆえ、
私たちはできるかぎり熱心に、聖霊様の力によって、
このような汚れからきよめられるように
努力しなければならないことを証しています。
なぜなら罪は、
信じている私たちをもはや裁くことはできないとはいえ、
依然として私たちの中に残存しているので、
神様が要求なさっているほどには、
心から信じたり愛したり
神様に避けどころを求めたりはできないようにして、
私たちを苦しめ妨げているからです。
罪は、
私たちがきれいになったり、善い人になったり、
物静かにはなれないように、邪魔しているのです。
私たち自身はそうありたいと望んでいるにもかかわらず。
 
洗礼が罪を犯す自由を与えるような「道」を、
私はあなたに教えた覚えはありません。
そうではなく、
キリストの血のゆえにあなたの罪は赦されており、
あなたは救いの恵みにあずかることになったのです。
実にそれは、
今あなたが新しい生活を営み、
罪を捨て去るようになるためなのです。

(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)

士師記 7章24節前半

ギデオンは、使者をエフライム山地の至るところに送って、言った。「下って来て、ミディアン人を迎え撃ち、ベト・バラまでの水場とヨルダン川を占領せよ。」(士師記 7章24節前半)

私たちの愛する主キリストは罪や悪魔や死に勝利し、それらを追い払われたのですから、私たちもこれらの敵を圧迫し追討しなければなりません。私たちはそれらに屈従するのではなく、それらのくびきを負うのでもなく、それらを完全に滅ぼさなければなりません。すなわち、私たちは罪を殺し、悪魔に対抗し、聖霊様の御力によって神様に従わなければなりません。そのとき、私たちは敗残のミデアンびとを追討し、ヨルダン川と共に滅ぼしつくすことになります。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者