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コリントの信徒への手紙一 7章17節

おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。 (コリントの信徒への手紙一 7章17節)

悲嘆することは、私たちには許されていません。
しかし、働くことは、事情が違います。
逆に私たちには、
額に汗してパンを手に入れる、という義務が課せられています。
神様は、私たちが心配して気をもむのを禁じています。
なぜなら、
私たちには富裕な神様がいて、私たちが必要なものを御存知で、
私たちがあれこれ心配して祈り求めるよりも前に、
服や生活費などを与えてくださるからです。
どうして神様は、私たちが働かない場合には、
これらのものを与えてくださらないのでしょうか。
私たちが働くことを、神様は喜ばれ、また命じておられるからです。
そして神様は、
私たちの仕事のゆえではなく、御自身の善性と恵みのゆえに、
私たちが必要としているものをくださるのです。

鳥が飛ぶために生まれたのと同じように、人は働くために生まれました。

神様には、罪以外のものはすべて喜ばしいものです。
あなたが罪ではない何かを行っている場合、
その仕事はきっと神様の許しを得ています。
ただし、その仕事においても正しく振舞うように気をつけなさい。
やる気がなく嫌気がさしている時には、
まさにこの事実こそが、
神様に喜ばれる仕事をしている確かな証拠である、と思いなさい。
そのような時に、神様は、
あなたの信仰がぐらつくかどうか、悪魔が試みることを許可なさると同時に、
あなたの信仰が戦って成長する機会を設けられたのです。
このような神様が、本当にあなたと共にいてくださいます。

人が仕立て屋か靴屋か、農民か市民か、また貴賎の出自か、
などと問いただす必要などありません。
その人がキリストを信じており、
神様を畏れる心を持っていて、
隣り人に仕えているなら、
その人はいわば「活ける聖人」であり、
一番大切な戒めをしっかり守っており、
なしうる限り最善で最高のことを行っているからです。
 
農民の仕事は喜ばしく希望にあふれています。
なぜなら、
実った穂を収穫したり、畑を耕したり、
苗を植えたり、刈り取りをしたり、
脱穀したり、木を伐採したりする仕事には、
とりわけ大きな希望が秘められているからです。

キリストのあがないのみわざを、
人間のわざなど他の一切のものから
混じりけなく清潔に保つなら、
あなたは自分で好きなだけ厳しい生活を送ってもよいし、
ありとあらゆる善行をしてもよいし、
神様からいただいた職務を忠実に果たしたり、
神様の御言葉が私たちに命じているすべてのことをしてよいのです。
そのようなわざは、
「真の泉」から、すなわち、
神様への愛と神様の戒めに従おうとする偽りのない意志とから
流れ出ています。
自分のわざは、
自分の罪を帳消しにするためにではなく、
神様の栄光と隣り人の益のためになされる時には、
神様にとって喜ばしいものなのです。

あなたは仕事をしなければなりません。
しかし、生計を立てたり家族を養うことは神様のお仕事です。
それゆえ、あなたは仕事と生計というこれらふたつのことを
互いにはっきりと分けなければなりません。
ちょうど、天と地、神様と人が
互いにまったく分け隔てられているのと同じように。
 
「キリスト信仰者が飢え死にする」などということは
誰も見たことも聞いたこともありません。
たしかにキリスト信仰者は
迫害を受けますし、投獄されますし、
殺される人たちが何人もいます。
しかし、御言葉を信じている時、
キリスト信仰者は皆、
食べ物を見つけることができましたし、生計も立ちました。
主キリストは客人に
パンや魚を食べ物として、
水を飲み物として与えてくださいます。
イエス様は、
贅沢に暮らしているお金持ちとはちがって、
何十種類もの料理や多種多様なお酒を
ごちそうしたりはなさいませんけれども。
自分が飢えないで体を健康に保てることの他に、
あなたが望むべきことがあるでしょうか。

からだがちゃんと仕事をし、「目覚めている」ようにしなさい。
「古い人」が悪い行いに駆り立てられずに、落ち着いた生活をし、
御霊に従うようにするためです。

もしもパンを持っていたとしても、
そのために「自分は大丈夫だ」などとは思い込まないようにしなさい。
しかし、パンがない場合でも、
そのために希望をなくすようなことがあってはなりません。
むしろ、パンがある時にはそれを用い、
パンがない時にはそれなしで済ませるようにしましょう。
パンがあってもなくても、
ちゃんと生きていけることに確信を持ってよいのですから。
このような信仰によって、お腹と生計の心配事に打ち勝つことができます。
 
自分の理解と力の及ぶ限りのことを行いなさい。
できることをすべてやったその後で、
私たちの主なる神様にすべてをゆだねましょう。
神様が働きかけ、支えを配り、成功へと導いてくださるように、願い求めなさい。
自分自身のわざや知恵に頼らないようにしなさい。
 
めいめいが神様から与えられた仕事や立場に留まるのは、
本当に神様にお仕えすることです。
たとえ与えられている使命がどれほどささやかなものであったとしてもです。

キリスト信仰者には皆、「真に霊的な祭司」の仕事が与えられています。
彼らが相互に異なっている点は、
神様が彼ら一人一人に(御言葉に基づいて)お与えになっている
「職務」の多様さに由来しています。

(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)

ルカによる福音書 5章4節

話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。(ルカによる福音書 5章4節)

主はこう言われているかのようです、
「網を放ち、漁をしなさい。
しかし、魚が取れるかどうかという心配は私に任せて、
あなたがたは自分の仕事に集中しなさい」。
ところが、私たちは逆のことをしています。
それゆえ、もしもクリスチャンとしてふさわしく生きて行きたいのなら、
魚が網にかかるかどうかという心配は神様に任せて、
あなたは何かの職に就いて仕事をしなさい。
「あなたは鼻に汗をかきパンを食べることになる」
(創世記 3章19節)、と神様はアダムに言われました。
この御言葉に忠実に従おうとするのはとてもよいことです。
それゆえ、あなたは信仰をもって仕事をし、
他のことはすべて神様にお任せしなさい。
(中略)
たとえ神様が私たちの仕事の成果をすぐには与えてくださらなくても、
私たちは希望をもって待ちつづけるべきです。
たとえば、この御言葉にもあるように、
弟子たちが一晩中漁をしても徒労に終わるようにし、
あたかも彼らが飢え死にしてもかまわないかのように、
神様は振舞われました。
漁をしている間、ペトロは、
「神様は私の体が飢えて弱るままにほうっておかれたいのだな」、
などと考えたかもしれません。
しかし、ペトロは疑わずに仕事をつづけました。
「少しくらい遅れても、神様は自分に魚をとらせてくださる」、
という揺るがぬ希望をもちつづけました。
その後、神様が来られて、
ペトロにあふれるほど沢山の魚を一度に与えてくださいました。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者