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ヨハネの手紙一 5章4節

神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。(ヨハネの手紙一 5章4節)

キリストがこの世で歩まれた「歴史」を知っていることは信仰ではありません。悪魔どももそれを知っています。「信仰」と私たちが呼ぶのは、聖霊様が与えてくださる新しい光と力のことです。それによって私たちは悪魔の脅迫に打ち勝つのです。この勝利はクリスチャンであることの目印であり、神様から生まれた人たちはそれをもっています。その目印は、クリスチャンを、神様の御言葉に表面的には触れてはいてもその力を一度も経験したことのない偽の子供たちから区別します。
(マルチン・ルター、宝石箱)


信仰は、神様の恵みへの生き生きとした大胆な信頼です。
信仰は、確信に満ちているので、
神様の恵みに頼り切って
千回死ぬのもいとわないほどです。
 
神様の恵みを知って信頼するとき、
人は、神様やすべての被造物に対して、
びくびくせずに心から喜ぶ者にしていただけます。
 
神様の恵みを知ってそれに信頼する人は、
神様への愛から、
神様への賛美のあらわれとして、
無理強いされなくても、
すべてに対してよいことを行いたくなり、
すべてに仕え、
すべてを耐えます。
それゆえ、
行いと信仰を互いに分け隔てるのは不可能です。
それはちょうど
火が燃えていることと火が輝いていることとを
分けることができないのと同じです。
 
私たちには、
信仰よりもよいものをさがす必要がありません。
信仰から目をそらさないようにしましょう。
私たちの信仰が成長して強められていくためです。
なぜなら、
信仰の成長は、
信仰の誕生と同じように、
なくてはならないものだからです。
ただし、
これらすべてのことは神様のみわざなのです。
 
わずかな「ミルクの信仰」は、まだひよわなものです。
本当の試練がやってくると、
それによって信仰が試されますが、
神様から信仰を強めていただく必要があります。
そうしなければ、
そのわずかな信仰は試練に耐えることができません。

信仰が最高に力強く素晴らしい状態にあるのは、
嘆きや苦しみが最も辛い時にほかなりません。

信仰は活きており、働いており、熱心で、偉大なことです。
それゆえ、
それが善いことを行わないでいることは、到底不可能です。
信仰は、
「善いことをどうしてもやらなければならないのか」、
などとぼやいたりはしません。
そんなことを口にする前に、
すでに信仰は善きわざを働きの中で行っているのです。
 
信仰は光です。
理性が暗さを増していき、恥に陥るときに、
この光は私たちを導き、暗闇の中で私たちのために輝きます。
 
私はしばしば二つの信仰について話してきました。
あるタイプの「信仰」は次のようなものです。
あなたはキリストを、
福音全体に描かれ啓示されている通りに信じてはいますが、
あなた自身については、そのようなお方としては信じてはいません。
あなたは、
自分がキリストからすべてをいただいているのか、
それともこれからいただくのか、
確信がもてません。
こうした「信仰」は無きに等しいものです。
それでは、
キリストを味わったり、
キリストに対して「素晴らしいお方だなあ」
という感情や愛をいだいたりすることが、
決してできません。
それは
「キリストを取り扱う信仰」ではありますが、
「キリストへの信仰」ではありません。
そのような「信仰」は
悪魔にも、神様をないがしろにしている者たちにもあります。
あなたの救いは、
あなたがキリストを「義人たちのキリスト」であると
信じることにはありません。
そうではなく、
あなたがキリストを「自分自身のキリスト」として
信じるところにあるのです。
この信仰こそが、
キリストをあなたにとって愛するお方とし、
キリストがあなたの心の中で愛らしく感じられるようにするのです。
その結果、
何の強制もなしに、愛とよい行いとが生れてきます。
もしもそれらが生れない場合には、信仰もそこにはないのです。

神様はその人自身を通して
偉大なみわざを成し遂げたいと望まれている、
という確信を失わないようにしなさい。
 
神様があなたに何を望まれているか、
揺るがず、疑わず、
注意を凝らさなければなりません。
  
あなたがたは信じなければなりません。
こう聞くとあなたがたはすぐに、
「私は自分から信じ始めることにしたい」、
と言うでしょう。
あなたがたは、
信仰とは、
あなたがた自身の仕事や力や行いのことであるかのように思い込み、
あまりにも安易に「行い」に走ってしまいます。
しかし、それではいけないのです。
あなたはこのことを神様にゆだねなければなりません。
自分を信じてはいけないのです。

信仰は
神様からの賜物であり、
神様の力であることを、
まず始めに学びなさい。
それは、
神様おひとりのみに栄光を帰するためであり、
誰も自分の力を誇ることのないためです。

私たちを引き寄せ、御言葉を与え、
御言葉を通して聖霊様と信仰を与えてくださるのは、
天の御父様です。
聖霊様と信仰は、
そのどちらも神様からの賜物です。
私たちの仕事や力の結果ではありません。
 
もしも私たちが神様に、「聖霊様をください」、と祈るなら、
神様は喜んで聖霊様を与えてくださいます。
「御言葉を聞けば、すぐにそれを信じることができる」、
などと思い込み、傲慢にならないように注意しなさい。
さもないと、
「よい行いをするのは難しいけど、信じることはすぐに習得できる」、
などと考えるようになってしまいます。
   
試練もなく、悲しいこともなく、
へりくだる必要もなかった人々は、
信仰を取るに足りないこととみなします。
しかし、
彼らの信仰が試され、
間違った教えを見分ける必要に迫られ、
危機の最中で自分を慰めなければならない時が来ると、
歌は消え、
誰も家でくつろいではいられなくなります。

信じない人は、
「水の流れを渡りたいと思いながらも、
船を信頼するのを恐れているため、
結局自分のいるところにとどまりつづける人」、
に似ています。
信じない人は決して救われません。
なぜなら、
その人は、船に乗り込んで水の流れを渡りたいとは思わないからです。

あなたは、
もしも信じているならば、それについて話すことでしょう。
もしも話すなら、そのために苦しむことになるでしょう。
もしも苦しむなら、それから慰めを受けるでしょう。
なぜなら、
信仰と信仰告白と十字架とは互いにかかわりがあり、
真のクリスチャンに伴うものだからです。
 
信仰はすべてにおいて必要不可欠です。
信仰はすべてを軽く、善く、愛らしいものにします。
牢獄にいても、
死の荒波にさらされていても、
それは同じです。
実際その通りであると、殉教者たちは証しています。

たとえあなたが
全世界の快適な贅沢を味わうことができたとしても、
信仰がなければ、
それは重苦しく、悪く、失望に満ちた人生です。
実際その通りであると、権勢を誇った大金持ちたちは証しています。
彼らの人生はいつでも最も惨めなものでした。

(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)

ローマの信徒への手紙 14章7~8節

わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。(ローマの信徒への手紙 14章7~8節)

死がどんな意味をもっているか、ここからわかります。死は彼らにとって勝利です。死は彼らを傷つけるどころか、彼らに襲いかかってきたときに自分を痛めつけてしまいます。死ぬときに私は勝つのです。私はそうしてより速やかに命へと入ることができるからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者