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ガラテヤの信徒への手紙 3章27節

洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。(ガラテヤの信徒への手紙 3章27節)

私たちの服は、アダムの皮膚、死の衣装、罪の服、です。言い換えれば、私たちは皆、罪の支配下で屈従を余儀なくされています。私たちは恐るべきほど盲目で無知であり、神様を軽んじ神様に怒っています。その上、私たちは悪い欲望や汚れや貪欲などに満ちています。この服、すなわち、私たちの罪の性質を、私たちはすでに受胎のときにアダムから受けたのです。私たちはそれをすべての行いと共に脱ぎ去らなければなりません。しかし、それは服を代えることによっては成功しません。どんな律法や行いによってもだめです。それが実現するのは、パウロが「キリストにあって洗礼を受けたあなたたちは皆、キリストを身に着けたのです」と言っている通り、洗礼における新しい誕生と新しい変化によってです。
 キリストは、律法でも、律法を与える者でも、行いでもありません。キリストは、天のお父様が私たちを義とし活きる者とし贖う方として私たちに贈ってくださった、言葉では表せない神的な贈り物です。「キリストを着る」ことは律法や行いに身を包むことではなく、言いようもなく素晴らしい贈り物、すなわち、罪の赦し、義、平和、慰め、聖霊様における喜び、救い、命、つまりキリスト御自身を着ることなのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ローマの信徒への手紙 7章19節

わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。(ローマの信徒への手紙 7章19節)

この世で肉の中に生きている限り、
私たちが弱さや欠点から完全に解放されることはありません。
罪や苦しみがまったくなく
義と喜びにのみ満たされている人は誰もいません。
なぜなら、
「罪や悪い欲望と戦いつつも、
できれば感応したくないと思っていることに意に反して感応してしまう」
という点を除けば、
クリスチャンも他の人々と同じように肉と血をもった存在だからです。
このようなクリスチャンは、
自分の感覚に基づいて自分を裁いたり、
「私はもうだめだ」、とあきらめたりはしないようにしましょう。
教会はこの地上で、
弱さ、貧しさ、惨めさ、死、侮蔑、恥辱の中にあって
戦わなければなりません。
たとえ自分の中に
罪、絶望、忍耐不足、罪への堕落がまだあるとしても、
誰も他の人(の欠点)につまずいたり、
自分に絶望するべきではありません。
つまずいたときには、
「つまずいた私を、神様は捨てた」、とは考えず、
心を入れ替え、御言葉を信じて、陥った罪から立ち上がり、
「罪よりも強い恵みの御国に私は住んでいる」、と自分を慰めなさい。
「律法が入り込んできたのは、罪過が増し加わるためでした。
しかし、罪が増し加わったところには、恵みもますます満ち溢れました」
(ローマの信徒への手紙 5章20節)。
この恵みの御国で私たちが賜物としていただく聖霊様は、
新しい勇気と力を与え、弱さの中にある人を強め、
「神様のお住まい」に変えてくださいます。
そこでは、神様の愛が支配しており、
人の弱さを覆い隠し、それはもう罪とはみなされません。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ローマの信徒への手紙 5章15節

しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。(ローマの信徒への手紙 5章15節)

アダムは、すべての罪や悲惨や死の源であり、私たちに遺産として、罪に加えてさらに罪を与えています。一方、キリストは、すべての恵みや命や真理の源であり、私たちにあふれるほど豊かに、これらすべてを、恵みに加えてさらに恵みを与えてくださっています。
(マルチン・ルター、宝石箱)

エレミヤ書 13章23節

クシュ人は皮膚を/豹はまだらの皮を変ええようか。それなら、悪に馴らされたお前たちも/正しい者となりえよう。(エレミヤ書 13章23節)

これが原罪、生まれながら人間に染み付いている本当の罪の核心です。もしも原罪がなければ、本当の罪などは存在しないところです。ほかのすべての罪とは違い、これは行いによる罪ではありません。これは活動を続け、ほかのすべての罪を引き起こします。これは罪の中の罪です。この罪は時折行われるものではありません。人間がいるあらゆる場所、またあらゆる時間に、この罪もまた存在しています。(中略)人が自分の力で自分自身を自然に生むことができないのと同じように、人はこの原罪なしで生活したり、原罪から自分を解放することもできません。私たちの造り主なる神様にのみそれが可能です。それゆえ、神様は私たちにまず律法を与え、それによって私たちがこの原罪を知り、恵みを渇望するようになさったのです。そして次に福音を与えて、それをとおして私たちに助けを提供してくださるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

創世記 2章16~17節

主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記 2章16~17節)

この命令を破ることによって、アダムは私たち皆を罪に陥れました。私たちは、アダムと血と肉でつながっているからです。アダムに起こったことは、私たちにも起こります。神様の御決定により、私たちは皆、ひとりの人間の子孫として生まれ、そのゆえまた、彼の「遺産」も受け継いでいるのです。アダムの行いのゆえにアダムに降りかかった呪いは、私たちにも降りかかっています。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者