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テモテへの手紙一 1章9節

律法は、正しい者のために与えられているのではなく(テモテへの手紙一 1章9節より)

「もしも私に絶えず罪がある場合には、それは正しくないことでしょう?」。
答え。
「そう、私は罪人で悪いことをしているけれど、
こんな疑問を抱いたり、地獄へと急いだり、
律法から逃げてみたところで、何も始まりません。
私のためには、モーセよりもさらに上方にある「みわざ」があります。
それによって私は、「私をつかまえてくださった方」につかまります。
私は、
「私を洗礼において受け入れて、抱きかかえ、
福音を通して「御自分のもの」にあずからせ、
御自分を信じるように命じておられるお方」
にしっかりとつかまります。
この方がおられる御許から、
ファリサイ人、モーセや十戒、
律法学者全員と彼らの書物全部、
全人類とそのあらゆる行いが黙って退去するように、
彼らに命じなさい。
この方の御許では、
たとえ私がするべきことをしなかった場合でも、
律法には私に対して責めたり要求したりする権利はまったくありません。
私は、自分に欠けているすべてのものを、
キリストにおいて豊かにいただいているからです」。
まとめると、こうです。
「外なる人」(「生身の人間」)の上に
あまり重すぎるものを載せすぎてはいけないし、
無理やり担がせてもいけません。
とりわけ「良心」の上には、一切何も載せてはいけません。
なぜなら、
キリストを私たちにもたらす御霊のおられる御許では、
人はあらゆる律法の上方にいるからです。
パウロが、
「律法は正しい者(義なる人)のために定められてはいません」、
と言っている通りです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ガラテヤの信徒への手紙 3章25~26節

しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。(ガラテヤの信徒への手紙 3章25~26節)

キリストは、人間性を身にまとって、時間の世界に踏み入り、律法をあらゆる裁きと共に満たし、御自分の死によって、信仰を通してキリストの恵みのみわざを自分の宝物としている人たちを、罪や永遠の滅びから解放しました。ということは、もしもあなたがキリストとキリストのみわざとを見つめているならば、あなたはもはや律法の下にはいないことになります。なぜなら、キリストは、時が満ち世にあらわれて、律法の要求を完全に満たしてくださったからです。いったん律法が満たされた以上、私たちはもはや律法の厳しい監視の下にはいないのです。それで私たちは、御霊により憐れみ深く私たちを支配してくださるキリストの中で、安心し喜んで生きていくことができるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ガラテヤの信徒への手紙 3章24節

こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。(ガラテヤの信徒への手紙 3章24節)

私たちが天国でモーセに出会うときに、モーセはこう尋ねることでしょう、「どうやってここに来ましたか。律法を破らなかったのですか」。そのときに私たちはこう答えます、「私たちは律法の光のもとではあまりに惨めでした。律法の要求は私たちを不安に陥れ、キリストへと追いやりました。キリストにあって私たちは、律法が要求しつつも実現できずにいたことをすべて、一挙に得ました」。そのときモーセはこう答えるでしょう、「あなたたちは私の言っていることを正しく理解しましたね」。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ガラテヤの信徒への手紙 3章10~11節

律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。(ガラテヤの信徒への手紙 3章10~11節)

「義とされるためには律法が必要だ」と教える者は、キリストやキリストの恵みのみわざを否定して、神様を嘘つきにしてしまいます。なぜなら、律法はキリストについての約束を強く支え、「キリストは律法ではなく、恵みの王様である」ことを予言したからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ガラテヤの信徒への手紙 2章18節

もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。(ガラテヤの信徒への手紙 2章18節)

私は福音の説教によって律法を滅ぼしました。
それは、律法がもはや良心を支配しないためです。
なぜなら、
新しい住人なるキリストが、
おひとりで住まわれるために新しい部屋へと引越して来られたので、
古い住人なるモーセは、そこから退いて、
他のところへと引っ越さなければならないからです。
しかし、
新しい住人なるキリストがおられるところには、
律法も罪も怒りも死もありません。
そこにあるのは、恵みと義と喜びと命のみであり、
キリストのゆえに怒りを鎮めてくださった、
憐れみ深く恵みに満ちたお父様のもとへと避けどころを求める
子供の心があるだけです。
私は今
キリストを追い払って、
私が福音によって植えたキリストの王国を滅ぼし、
再び律法に権力を与え、
モーセの王国を再建するべきでしょうか?
もしも私が偽使徒どものように
「割礼[1]と律法の遵守は救われるために不可欠である」
と教えるならば、そうなってしまうでしょう。
そして、
私は義や命の代わりに罪や死を再びもちだすことになるでしょう。
律法は罪のみを示し、怒りと死をもたらすものだからです。
 
[1] 生まれて8日目に男の赤ちゃんの性器の包皮の一部を切り取る、ユダヤ人の儀式のこと。

ガラテヤの信徒への手紙 2章5節

福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。(ガラテヤの信徒への手紙 2章5節)

ここで「福音の真理」とは福音の内容や意図ではなく、福音の正しい使用法であることに注目するべきです。福音の真理とは、「すべては清い者にとって清く、戒めは死んでいて誰をも強制できないので、救われ義とされるためには何の行いも必要ないことを知ること」にほかならないからです。私たちは「戒め」(十戒など)を、あたかもそれが存在しないがごとく、しかし愛に基づいて守ってゆこうではありませんか。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ローマの信徒への手紙 11章6節

もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。(ローマの信徒への手紙 11章6節)

私たちの救いは、律法と福音の両方に基づくことはできません。私たちは、信仰を通して義とされ、その結果律法の義を失うか、あるいは、律法を通して義とされ、恵みと信仰の義を失うか、そのどちらかです。恵みを失い律法に頼ることは、恥ずべき不幸な喪失です。しかし、律法を失い恵みに頼ることは、それとは逆に、救いの幸せに満ちた喪失です。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ローマの信徒への手紙 10章4節

キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。(ローマの信徒への手紙 10章4節)

誰でも、福音が訪れる前には、律法を私たち自身の行いを要求しているものとして理解します。律法についてのこのような考え方は、私たち人間を、かたくなで、自己満足的で、自分の行いを誇る、石甕のように硬い(「ヨハネによる福音書」2章)偽善者にするか、あるいは、まわりから圧迫を受けて苦しみを受け、平安を欠いた良心の持ち主にします。
 (中略)
しかし、福音は、律法が、私たち人間には不可能なことを要求しており、私たち自身ではない他のあるお方がその要求を満たすことを望んでいる、という説明を与えます。言い換えれば、律法はキリストを要求しており、私たちをキリストのみもとへと追いやるのです。それは、私たちが、御言葉の恵みを通して信仰へと導かれて、別の人間になり、キリストに似た者となり、正しくてよい行いをするようになるためです。律法の真の意味と目的は、私たち人間が自分の力では律法を満たすことができないことをあきらかに示して、私たちが恵みや助けを、他のお方に、すなわちキリストに求めるように追い立てることなのです。
 (中略)
私たちの心が、キリストは私たちのために律法を満たし、私たちの罪を引き取ってくださったことを聞くときに、律法が私たちに対して不可能なことを要求していることをもはや気にかけたりはしないし、(律法に従おうとする)行いをやめてしまって、絶望に落ち込んだりもしません。そうです。律法が、偉大なことを要求する、深く高く聖く正しくよいものであることが、いまや本当にすばらしいと実感できるようになります。そして、律法が要求している内容の豊富さと大きさのゆえに、律法は愛され賛美されるようになります。そのような心の持ち主は、福音のおかげで、キリストにあって、律法の要求していることをすべてもっていることになります。
(中略)
御覧なさい。こうして律法は、以前には厳しく重く不可能なものであったのに、いまや愛すべき軽いものに変わっています。律法は、今では御霊によって心に書き込まれているからです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ローマの信徒への手紙 8章3~4節

肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。(ローマの信徒への手紙 8章3~4節)

与えることと受け取ることが異なり、あるいは、要求することと贈ることが異なっているのと同じように、律法と福音とは互いに遠く隔たっています。この相違をはっきりしなければなりません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

マタイによる福音書 5章17節

(イエス・キリスト)「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイによる福音書 5章17節)

律法は病気を明示し、福音は薬を与えてくれます。

律法は、私たちが何をするべきか、を教え、
それと反対に、
福音は、神様は何を与えたいと思われているか、を教えてくれます。
 
律法は光です。
律法が照らし出し啓示するのは、
神様の恵みではなく、
永遠の命をいただけるようにするような義でもありません。
律法が明示するのは、
罪であり、私たちの惨めな状態であり、
死であり、神様の怒りと裁きです。
福音は律法とはまったく異なる光です。
福音は、明るくし、活気を与え、
慰め、怯えた心を立ち直させてくれます。
 
律法は、人を懲らしめますが、
自分自身のためにそうするのではありません。
その目的は、人をキリストの御許へと追いやるためです。
もしも生徒を懲らしめてばかりいて、
彼らに何も教えない教育者がいたとしたら、
どんなにひどいことでしょう。

もしもキリストが私や全世界の罪を
御自分の上に引き受けてくださらなかったとしたら、
律法はキリストに対して何の権限ももたなかったことでしょう。
なぜなら、律法は罪人のみを裁くものだからです。
しかし、キリストは
「救いの幸せに満ちた交換売買」を行ってくださいました。
イエス様は私たちの罪深さを引き受け、
そのかわりに、
罪なく勝利に満ちた自分自身を私たちにプレゼントしてくださったのです。
「キリストを着る者」[1]として、
私たちは律法ののろいから解放されています。
 
金の指輪に宝石がちりばめられているように、
クリスチャンの心の中には、律法の主なるキリストがいてくださいます。
 
キリストは、
律法に対して律法となり、
罪に対して罪となり、
死に対して死となってくださいました。
それは、
キリストが私たちを律法ののろいからあがないだして、
義とし、
罪や死から救い出して、
活きる者とするためです。

[1]「ガラテアの信徒への手紙」3章27節にこうあります、「キリスト(の中)へと洗礼を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです」(訳者註)。

(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者