タグは ‘御言葉を受け入れる’

ヘブライ人への手紙 4章2節

彼らと同じく私たちにも福音が伝えられたのです。しかし、聞かれた御言葉は彼らにとっては無益でした。福音を聞いた者たちと(福音は)信仰によってひとつに混じり合わなかったからです。(ヘブライ人への手紙 4章2節)

神様が望んでおられるのは、御言葉が、あたかも波の泡か口の中の唾のように、私たちの舌の上で転がっているだけではなく、私たちが御言葉を、あたかもそれが自然に私たちに生え育ってきたかのように、どこにも消えうせたりしない記念碑として心に深く刻むことです。
(マルチン・ルター、宝石箱)


「イエス・キリストが私のために死に、私の罪を取り去り、私に天国を用意してくださった」ということを耳にするときに、私は真の福音を聞いています。
宣べ伝えられた御言葉によって生じた音響はまもなく止みますが、もしも御言葉が心に根付き、信仰によって受け入れられているならば、その御言葉は決して消えることがありません。
そして、この真理を無効にするような者は存在しません。
地獄の門もこれに対して何も手出しできません。
私が悪魔に呑み込まれそうになっている場合でさえ、私が御言葉をもっているならば、悪魔は私を解放するしかないのです。
こうして、私は御言葉の中で守られていきます。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ガラテヤの信徒への手紙 1章4節

キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。(ガラテヤの信徒への手紙 1章4節)

「私たちの罪のために」とか「私のために」とかいった言葉に
どれほど多くのことが含まれているかよく注意して考えてみなければなりません。
さらに、「私のためにささげられた」という御言葉を
はっきりとした信仰をもって受け入れ、
それを自分にもあてはめるようになりましょう。
キリストはペトロやパウロや他の使徒たちだけを愛して、
彼らだけのために御自分をささげてくださったのではありません。
そのような恵みは私たちにも同じように与えられているのです。
このことを「私のために」というこの短い言葉は意味しています。
私たちは皆罪人であり、
アダムはその罪によって私たち皆を腐敗させ、
神様の怒りや裁きや永遠の死を受けるのが当然の存在にしてしまいました。
それと同様に、キリストは、
私たちを義とするために、
私たちの罪のために死んでくださいました。
キリストは、前からすでに義である者たちを義とするために死なれたのではなく、
貧しい罪人を助けて彼らが義とされ、
神様の友、神様の愛する子供になり、
天国を継ぐ者となるために、死んでくださったのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)


クリスチャンに特有な知識や真の知恵は、
パウロの伝えたこれらの御言葉を厳粛に受け止めるところにあります。
すなわち、キリストが死なれたのは、私たちの義や聖のためではなく、
私たちの罪のためであった、ということです。
この罪は、本当に存在するものであり、大きく、おびただしく、数え切れず、
とても打ち勝つことができないほどのものです。
そういうわけですから、
「自分の罪は些細なものだから、自分の行いで取り去ることができるだろう」
などと思い違いしてはいけません。
また、人生の中で自分の罪の深刻さに気付かされ、
「自分の罪はあまりに大きすぎる。絶望だ」
などと落ち込む必要もありません。
このパウロの言葉を通して次のことを信じるようになりなさい、
「キリストはたんに想像上のものではない本当に存在する大きな罪のために
死んでくださったのだ。また、すでに克服された罪のためではなく
(なぜなら、どんな人間も天使も一番小さい罪にさえ勝つことができないから)、
打ち勝つことができない罪のために死んでくださったのだ」。
もしもあなたが、この信仰の教えをしっかり保っている私たち、
言い換えれば、その教えを愛し信じている人々の中に入っていないのならば、
あなたの救いはまったく失われています。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)


この悪の世からわたしたちを救い出そうとして(ガラテヤの信徒への手紙 1章4節より)

今の世は悪いため、
自分の行いや力によっては誰も罪を取り除くことができないことを、
この御言葉は教えています。
ヨハネが、「この世全体が悪い者の支配下にあるのです。」、と言う通りです
(ヨハネによるの手紙一 5章19節)。
キリストを差し置いて事を進める場合、
あなたの賢さはその倍の愚かさになり、
あなたの義はその倍の罪や悪行になります。
それは、キリストの知恵や義について無知であるためです。
さらに、あなたの賢さは、キリストの知恵を暗くし、妨げ、侮り、迫害します。
ですから、パウロが世を悪と呼ぶのは正しいのです。
世はそれが最良の時こそ最悪だからです。
真摯な人々、賢い人々、また博識の人々などは
世の最良の部分の具体的な表れといえます。
しかし実のところ、彼らはその美徳の倍も悪い存在なのです。
両親や世の権威などに対する不従順、姦淫などの性的な犯罪、
貪欲、盗み、殺し、嫉妬、怒りなど、
神様の十戒の二枚目の石板に刻まれている律法(第四戒から第十戒まで)
に対するあからさまな罪については、ここではこれ以上触れません。
これらの罪の中に世は完全に沈みこんでいます。
しかしそれらの罪は、
十戒の一枚目の石版に刻まれている律法(第一戒から第三戒まで)
に歯向かう、神様を無視する人々の賢さにくらべたら、
まだ軽い犯罪だというべきでしょう。
人々を霊的な罪に追いやり、
自分は義であるかのように振舞う「白い悪魔」は、
この世でさえ罪だとみなす肉的な罪に
人々を駆り立てる「黒い悪魔」よりも、
はるかに害をもたらします。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ヨハネによる福音書 14章26節

しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。(ヨハネによる福音書 14章26節)

御言葉に触れるのは、たとえそれがいつも私たちを感動させるわけではないとしても、有益なよいことです。それにより、必要に応じて私たちの心が聞いた御言葉を思い出して正しく理解し、その力と慰めを感じるようになります。それはちょうど、灰に覆われてくすぶっていた火の粉が、そこに空気を送り込んでやるとぱっと燃え上がるようなものです。
(マルチン・ルター、宝石箱)


確かに私たちは「聖霊様の説教」である神様の御言葉を聴いていますが、
それがいつも人の心を打ち、
信じて受け入れられるというわけではありません。
聖霊様の働きによって
御言葉を自分のものとし、すすんで聴く者でさえ、
かならず御言葉の実を結ぶとは限りません。
御言葉によって
悔い改めたり、慰められたり、支えられたりしないまま、
長い時がたってしまうこともしばしばあることでしょう。
とりわけ、
これといった苦しみや危険もなく、
波風も立たずのんびりと過ぎていく人生の場合には、
そうなってしまうことでしょう。
それはちょうど、
キリストが取り去られる前の使徒たちのようです。
その時には、
「キリストが肉体をともなって弟子たちと共にいてくださる」
という類の慰めしか弟子たちは考えません。
それゆえ、私たちは、
困難や危険に直面した時には、
真の慰めを慕い求めて、
嘆息するようにならなければならないのです。
そうしてはじめて、
聖霊様はその職務を遂行され、力を発揮されます。
すなわち、私たちの心を教えて、
説教が取り上げた御言葉を私たちに思い起こさせてくださるのです。
そういうわけで、
御言葉を聴いてそれを心に蒔くのは有益なよいことです。
御言葉はいつも心に響くわけではありませんが、
聖霊様はその御言葉が必要な「ある時」に、
かつて聴いたことがあるその御言葉を
私たちの心に思い起こさせてくださいます。
それはあたかも、
しばらくの間は消えそうになっていたのに、
それをかき混ぜて空気を送り込んでやるとまた燃え始める炭のようです。
ですから、
御言葉を聴いてすぐに
その実(つまり具体的な効果)を感じないからといって、
御言葉を
無力なものだとか、無駄に説教されたものだとか、
みなさないように、
また、
何か他のものに助けを求めたりしないように注意しなさい。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ルカによる福音書 5章5節

シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。(ルカによる福音書 5章5節)

これはすばらしい信仰のあらわれです。
ここでのペトロのように
自分の考えにいっさいとらわれずに、
ただ御言葉のみにしっかりとつながることができるなら、
どんなによいでしょうか。
主人が召使に「これをしなさい」と命じて、
召使がその通りにするならば、
主人はそれを喜びます。
たとえ召使が失敗しても、
主人はそれで怒ったりはしません。
しかし、それとは逆に、
もしも召使が主人よりも賢くあろうとし、
「ご主人様、それはだめです。
私も前にやってみましたが、うまくいきませんでした。
だから、私はそうしたくありません」、
などと言うならば、
主人の機嫌を損なうことになります。
それゆえ、
私たちが神様と御言葉に対して
ここでのペトロのように接することを、
神様はすばらしい栄光とみなしてくださいます。
そして、
たとえ理性がいまだに私たちを他のほうに向かわせようとしても、
私たちは立ち止まり、こう言うのです、
「理性よ、お前はあちこちに揺れ動いているが、
ここに神様の御言葉と戒めがあるのだ。
そこに私はとどまりたい。
そして、こうして御言葉にとどまれるならば、
私たちの主も天の御使いたちも皆喜んでくださるのだ」。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)


ペトロのように
一晩中仕事をして何の成果も得られないときには、
試練に遭うものです。
そういうことがあると、
私たちはすぐに心配になり、
愚痴をもらし、忍耐がなくなり、
「全部を放り出してどこかに行ってしまいたい」、と考えるものです。
しかし、私たちはこのような試みに隙を与えずに、
絶えず与えられた仕事を忠実に果たし、
仕事の成果については神様御自身にお任せしましょう。
なぜなら、私たちは、
御言葉に忠実な善良な義なる人々が何をやってもうまくいかないことを、
しばしば目にしているからです。
しかも、それとは逆に、
神様に反抗している悪い人々が
すべてにおいて彼らの希望通りに成功したりしています。
しかし、このような状態は長くは続きません。
はじめに失敗した人はしまいには成功し、
はじめに成功した人はしまいにはうまくいかなくなるからです。
あなたが不遇な目にあう場合には、
忍耐をもって仕事を続け、疲れ切ってしまわないようにしなさい。
御言葉への忠実を貫いて失敗するほうが、
御言葉を無視して成功するよりもよいことだからです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者