タグは ‘忍耐’

ヤコブの手紙 5章7~8節

兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。(ヤコブの手紙 5章7~8節)

神様はすべてのクリスチャンを「忍耐と慰めの学校」にお入れになります。この学校では、私たちはいつも学びの途上にあり、すべてをすっかり学び終えるようなことは決してありません。聖書は悲惨や苦しみや死を消し去ったりはしません。そのため、忍耐が必要になるのです。しかし、聖書は苦しみの只中にある私たちを慰め強め、倦まず弛まず私たちが前進できるように助けてくれます。私たちが勝利を得る時までずっとです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

エフェソの信徒への手紙 4章1~2節

そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、(エフェソの信徒への手紙 4章1~2節)

この地上で生きる限り私たちは、キリストが私たちを忍んでくださっているのと同じように、お互いに忍耐し合わなければなりません。なぜなら、私たちの中には完全な者などはひとりもいないからです。神様は、私たちがそれに向かって努力してさえいれば、それだけでも満足してくださるのです。御自身がよいと思われたときに、神様は私たちの信仰と愛を強め、私たちをこの世の生活から天国へと一瞬のうちに移してくださいます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ローマの信徒への手紙 8章18節

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。(ローマの信徒への手紙 8章18節)

もしも私たちがこの栄光を見るならば、私たちはさぞ立派に耐え忍ぶ殉教者となれることでしょう!もしも川の向こう岸に金貨のつまった箱をもった男が立っていて、「川を泳ぎ渡る勇気のある者は、この金貨をもらえるぞ!」と叫んだとすれば、すぐにでも真剣な水泳競争が始まることでしょう!
(マルチン・ルター、宝石箱)


どんな反対を耐えなければならないとしても、
どんな十字架を担いでいかなければならないとしても、
それはすべて軽く好ましいものにかわります。
キリストが担わせるくびきは、私たちにぴったり合っており、
キリストがくださる荷は、軽いからです
(マタイによる福音書 11章30節)。
罪が赦され、
それによって良心の平安が与えられた今、
クリスチャンは他のあらゆることを容易に耐えることができます。
今や、すべてがクリスチャンにとって
心から好ましく喜ばしいものにかわっているからです。
それゆえクリスチャンは、
たとえ肉的にはさまざまな困難が伴うとしても、
霊的にはすべてを喜んで行い、すべてを耐えるのです。
ところが、人が自分の義によって生きる場合には、
すべての仕事や苦しみは、その人にとって
堪えようもないほど重く苦しいものにかわってしまいます。
その人はそれらのことを、やる気もなく嫌々ながら行うからです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ヨハネによる福音書 16章16節

「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。(ヨハネによる福音書 16章16節)

愛する弟子たちと同じように、私たちは「しばらくの間」とはどういう意味か体験してみるべきです。なぜなら、これは私たちが慰めや指導を受けるための模範や教えとして書かれているからです。私たちはこれを箴言として用い、経験や感情に生かさなければなりません。それは、「造り主は時には私のもとに来てくださり、時には私からお隠れになります」と、いつでも言うようになるためです。ときには御言葉は私を感動させることなく、脇を素通りしていき、その力を感じることさえありません。そういう時には、ちょうどそのとき私たちはこの「しばらくの間」を生きており、私たちは力と忍耐とによって自分を守るべきだ、と気づくのが大切です。
(マルチン・ルター、宝石箱)


あなたは自分の「しばらくの時」が必要です。
その時、
あなたは忍耐強くあらねばなりません。
キリストは隠れて退かれ、
あなたが罪や死や地獄の手中に陥るのを許されるからです。
その時には、
良心が平安を得るために何をやろうと、
あなたの心は動揺するばかりです。
キリストが消え去り、死なれたからです。
その時、
「しばらくすると、あなたがたはもはや私を見なくなります」、
という賛美歌をあなたは耳にします。
その時、
あなたはどこに逃げるのですか?
慰めも助けも存在しないのです。
しかも、あなたは罪や死や地獄の只中に座しているのです!
 
もしキリストが、
あなたの功績とは無関係に、
あなたのもとに直ちに来てくださらなければ、
あなたは永遠にこのような苦しみや恐れの中に
うずくまっているほかないでしょう。
もしキリストが
復活して弟子たちに顕現されなかったら、
弟子たちも体たらくのままだったでしょう。
だからこそ、
イエス様が死者の中から復活する必要があったのです。
  
人は皆、
この世からの別離の時に、(遅くとも)死の床で、
この苦しみを体験しなければなりません。
私たちは、
福音のゆえに火に投げ入れられ、
騒乱の張本人扱いされる時に、
この御言葉の効能を知ります。
心が強められていなければ、試練に耐えられません。
死の患いと恐ろしさを目の当たりにするからです。
どこに逃げられるでしょう?
 
もしキリストが来ないで、その手を退けられるなら、
私たちは滅びます。
しかし、もしキリストが私たちを助けるために来られるなら、
肉(身体のこと)は確かに死にますが、
魂には何の危害も及びません。
キリストがそれを支配なさっているからです。
この支配の中で魂は安全に保管されていて、
それをキリストの手から奪い去る者はいないからです(ヨハネによる福音書 10章28節)。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ルカによる福音書 5章5節

シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。(ルカによる福音書 5章5節)

これはすばらしい信仰のあらわれです。
ここでのペトロのように
自分の考えにいっさいとらわれずに、
ただ御言葉のみにしっかりとつながることができるなら、
どんなによいでしょうか。
主人が召使に「これをしなさい」と命じて、
召使がその通りにするならば、
主人はそれを喜びます。
たとえ召使が失敗しても、
主人はそれで怒ったりはしません。
しかし、それとは逆に、
もしも召使が主人よりも賢くあろうとし、
「ご主人様、それはだめです。
私も前にやってみましたが、うまくいきませんでした。
だから、私はそうしたくありません」、
などと言うならば、
主人の機嫌を損なうことになります。
それゆえ、
私たちが神様と御言葉に対して
ここでのペトロのように接することを、
神様はすばらしい栄光とみなしてくださいます。
そして、
たとえ理性がいまだに私たちを他のほうに向かわせようとしても、
私たちは立ち止まり、こう言うのです、
「理性よ、お前はあちこちに揺れ動いているが、
ここに神様の御言葉と戒めがあるのだ。
そこに私はとどまりたい。
そして、こうして御言葉にとどまれるならば、
私たちの主も天の御使いたちも皆喜んでくださるのだ」。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)


ペトロのように
一晩中仕事をして何の成果も得られないときには、
試練に遭うものです。
そういうことがあると、
私たちはすぐに心配になり、
愚痴をもらし、忍耐がなくなり、
「全部を放り出してどこかに行ってしまいたい」、と考えるものです。
しかし、私たちはこのような試みに隙を与えずに、
絶えず与えられた仕事を忠実に果たし、
仕事の成果については神様御自身にお任せしましょう。
なぜなら、私たちは、
御言葉に忠実な善良な義なる人々が何をやってもうまくいかないことを、
しばしば目にしているからです。
しかも、それとは逆に、
神様に反抗している悪い人々が
すべてにおいて彼らの希望通りに成功したりしています。
しかし、このような状態は長くは続きません。
はじめに失敗した人はしまいには成功し、
はじめに成功した人はしまいにはうまくいかなくなるからです。
あなたが不遇な目にあう場合には、
忍耐をもって仕事を続け、疲れ切ってしまわないようにしなさい。
御言葉への忠実を貫いて失敗するほうが、
御言葉を無視して成功するよりもよいことだからです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

イザヤ書 2章3節

多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから御言葉はエルサレムから出る。(イザヤ書 2章3節)

主の道は主のみわざ、とりわけ、主が私たちの中で働かれるみわざです。主は、悪魔の仕業、罪、死、嘆き、恐れ、あらゆる不幸、さらには私たちの日々の堕落までをも消し去って、私たちの中にそれらとは反対のもの、すなわち、希望、正義、忍耐、喜び、平和を生み出してくださいます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者