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ヨハネの黙示録 14章13節

また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」(ヨハネの黙示録 14章13節)

「第二の死」(終わりの日に復活して永遠の死という裁きを受けること)は信仰者に対しては支配力を失い、キリストを通して命へとかえられています。あとに残っているのは、ほんの小さな死の胎、砂糖のように甘い死だけです。クリスチャンは死ぬことを通して、その「肉」(この世での身体)が不信仰、重くのしかかる罪、悲惨、悲しみ、誘惑から解放され、信仰、永遠の義、完全性、喜びへと移っていきます。この死(主に会って死ぬこと)は地上でのどのような人生よりも甘いものです。心に咎めがなく、信仰と永遠の命の確信をもって死ぬことは、私たちがこの人生や物や享楽から得ることができるような喜びよりも大きな喜びです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヘブライ人への手紙 4章9~10節

それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。 なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。(ヘブライ人への手紙 4章9~10節)

私たち、神の子の尊い血を通して贖われたクリスチャンは、自分を信仰において鍛錬しなければなりません。それは、私たちが死を軽蔑して、それを心地よい深い夢と見なし、棺を主イエス・キリストの懐すなわち天国と見なし、墓を静かな安息所(神様の目には実際にそうなのです)と見なせるようになるためです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

コリントの信徒への手紙一 15章55節

死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」 (コリントの信徒への手紙一 15章55節)

パウロはまるでこう言っているかのようです、
「死よ、お前の歯はどこにあるのか。
私の指でも噛みに来たらどうだ。
もっていた槍をどこに失くした。
そう、キリストがそれを取り去られたのだ。
お前のとげと力はどこに行った」。
ところで、「罪の力は律法である」、とパウロは言っています。
律法がはっきり知られるようになればなるほど、
それだけ罪は重くなり、痛く感じられます。
それゆえ、
「キリストは完全に死のとげを破壊してくださった」、
とパウロは言うのです。
このことをキリストは天国に持ち帰ったりはなさらず、
宣教を通じて世界中に広めるようになさいました。
そして、
キリストをこのような方として受け入れる人には、
槍が向かってくることもなく、
とげが待ち受けていることもなく、
その行く道には罪も死もありません。
これが、命と力を与えてくれる真の福音なのです。
ですから、キリストを正しく知るようになりましょう。
聖書によれば、義とは、キリストを正しく知ることにほかなりません。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ローマの信徒への手紙 14章7~8節

わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。(ローマの信徒への手紙 14章7~8節)

死がどんな意味をもっているか、ここからわかります。死は彼らにとって勝利です。死は彼らを傷つけるどころか、彼らに襲いかかってきたときに自分を痛めつけてしまいます。死ぬときに私は勝つのです。私はそうしてより速やかに命へと入ることができるからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ローマの信徒への手紙 4章17節

死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。(ローマの信徒への手紙 4章17節より)

神様は言われます、「私は「存在しないもの」が存在するようになるように呼び出し、嘆きや心の苦しみすべてを喜びに変えます。そしてこう言います、『死や墓よ、命へと変わりなさい!地獄よ、天国や救いに変わりなさい!毒よ、最良の薬に変わりなさい!悪魔や世よ、愛する私の天使たちや真摯な聖人たち以上に、私のものであるクリスチャンたちの益となるように働きなさい!私は、ありとあらゆる不幸や苦難を通して、自分の庭の世話をして耕し、それをよりよくしていくのです』」。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネによる福音書 8章51節

はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。(ヨハネによる福音書 8章51節)

御言葉は私たちに「罪や死や悪魔に勝たれたキリスト」を提示します。御言葉を受け入れそれを守る者は、キリストを受け入れるのであり、御言葉を通して永遠の死から解放されます。私たちは「御言葉を守るように」といたずらに命じられているわけではありません。罪が傷つけ、死が攻撃し、地獄が圧迫するとき、私たちは本当の戦争に巻き込ます。そのような時こそ、私たちは御言葉のもとへとしっかり避難し、御言葉から決して離れないことが肝心なのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)


私たちは死ななければならないし、死を苦しまなければなりません。
しかし、
神様の御言葉の中に留まる者は、死を知る必要がありません。
その人は、夢を見ているかのように、この世から離れていきます。
「私は死ぬ」ではなく、
「私は眠りに就かなければならない」
という言葉こそが似つかわしいように。

敵は私たちを死によっておびやかします。
しかし、
もしも敵にまともな理解力があるのならば、
敵は私たちを命によって脅すことでしょう。
なぜなら、
キリストが復活なさったため、
死は罪と死自身との終わりにすぎないものになっていることを、
私たちは知っており、それを誇りとし。喜んでいるからです。

神様の御前でキリストの御名と御言葉のゆえに死ぬのは、
尊くすばらしいことです。
なぜなら、
私たちはいつかは死ぬ身であり、
結局は罪のゆえに死ななければならないからです。
しかし、
もしも私たちがキリストの御言葉のゆえに死に、
御言葉を自由に告白するならば、
その時、
私たちはあらゆるうちでもっとも光栄な死をむかえることになります。

死に打ち勝つだけではなくて、決して死ななくなる、
という効き目がある薬を調合できる薬屋は、
すばらしい薬屋と言えるでしょう。
人は皆、死なねばなりません。
しかし、
心に神様の御言葉を保ち信じている人は死を見ることがない、
というのは大いなる奇跡です。
神様の御言葉は、
それを信仰により心に堅く納めておくならば、
死を永遠の命に変えるほど強力な薬なのです。

「私の御言葉を保つものは決して死ぬことがない」、
と主が言われているように、死は命のはじまりです。
目の前に命だけがあるとき、死を見ることがどうしてありえましょうか。
その時、夜は昼間のように澄みわたり、明るく輝いています。
始まろうとしている命の光と輝きは、
その時に存在しなくなる死よりもはるかに澄みわたり、
輝きに満ちているからです。

私たちのこの世での命は、「死ぬこと」にほかなりません。
もっとも私たちは、そのことをふだん考えもしないで生きています。
正しい視点からすれば、
私たちの命と死とは互いに遠く隔たっているわけではありません。
ベッドにもぐりこむ時、そこから再び起き上がれるか、私は知りません。
テーブルに座る時、そこから再び立ち上がれるか、私は知りません。
要するに私たちは、起きている時も寝ている時も、
死ぬ時と同様に、生きることに関しては不確かです。
ただ、習慣化していることは、
なじみが薄いもうひとつのこと(死と命)にくらべて、
それほど不思議には見えないだけです。

キリストを通して死は打ち勝たれ、全世界は無に等しくされました。
その結果今残っているのは「絵に描かれた死」だけですが、
それは矛先をへし折られているため、
キリスト信仰者を傷つけることはできません。

(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)

ダニエル書 12章13節

終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。(ダニエル書 12章13節)

クリスチャンの死は夢です。それを通してクリスチャンは命へと入ります。しかし、神様をないがしろにする者は命を捨てて永遠の死を得ます。あなたがたは次のように確信してよいのです、「キリストを信じて先にこの世を去ったあなたがたの友たちは死んだのではなく、甘く心地よい夢を見つつ眠っています。そして最後の日に、栄光に満ち太陽よりも眩しく光を放っている体をまとって復活するのです」。
(マルチン・ルター、宝石箱)

イザヤ書 53章12節

(その方は)多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。(イザヤ書 53章12節より)

私たちはキリストが苦しまれた十字架を
他ならぬ「聖壇」とみなさなければなりません。
この聖壇でキリストは、
御自分のからだと霊とを私たちの罪のために捧げて、
苦しみの只中で祈られました。
それは、
キリストが御自分の牧師としての職務を証して、
私たちを恵みへと導き、罪から引き離し、
永遠の死から解放するためでした。
罪を取り除く方は、死をも取り除かれるのです。
パウロが教えているように、
死は罪の報酬です(「ローマの信徒への手紙」6章23節)。
罪がないところには、死も力を振るうことがありません。
死のないところには、悪魔や地獄もありません。
かわりにそこにあるのは、永遠の義と命と救いです。
キリストが十字架で、
御自分の犠牲と祈りによって、罪を取り去ってくださったいま、
死や悪魔や地獄は、私たちに対してもはや何の権威ももっていません。
(中略)
これは私たちの喜びであり慰めです。
私たちはそれについて心からキリストに感謝し、心を込めて宣教するべきです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者