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ヨハネの手紙一 5章6節

この方(イエス・キリスト)は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。(ヨハネの手紙一 5章6節)

信仰において洗礼を受け入れる者は、キリストの血によって自分自身の罪から本当に清められます。私たちは罪の赦しを自分の行いによって手に入れるのではなく、神様の御子の死とその流された血によっていただくのです。そして、この罪の赦しを、神様は洗礼に結び付けてくださいました。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ペトロの手紙一 4章17~18節

今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。「正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。(ペトロの手紙一 4章17~18節)

すべての肉(つまり人間)はいつか自分に下される「裁き」を聞くことになります。それは、罪の赦しという「恵みの裁き」か、あるいは「滅びの裁き」かのどちらかです。そしてキリストが世に宣告なさった裁きは決して変更されることがありません。「信じて洗礼を受ける者は救われることになります。信じない者は滅びへと裁かれることになります」(「マルコによる福音書」16章16節)。
(マルチン・ルター、宝石箱)

テトスへの手紙 3章4~7節

しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。(テトスへの手紙3章4~7節)

洗礼において私たちに与えられた神様の恵みを、パウロは大いに賛美しています。パウロは洗礼を、手や足だけではなく、からだ全体の洗いとみなしています。洗礼は人間全身をいっぺんにきれいにし、幸いな救いに与るものにします。この救いを与り受け継ぐために必要なのは、神様の恵みへの信仰だけです。それは、私たちが自分の善い行いによってではなく、ただただ恵みによって、救いに与り、神様の憐れみを永遠に愛し、純真に賛美し感謝し敬うようになり、また、栄光を求めて自分の能力に頼ったり自分で自分を助けようとしたりはしないようにするためです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ガラテヤの信徒への手紙 3章27節

洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。(ガラテヤの信徒への手紙 3章27節)

私たちの服は、アダムの皮膚、死の衣装、罪の服、です。言い換えれば、私たちは皆、罪の支配下で屈従を余儀なくされています。私たちは恐るべきほど盲目で無知であり、神様を軽んじ神様に怒っています。その上、私たちは悪い欲望や汚れや貪欲などに満ちています。この服、すなわち、私たちの罪の性質を、私たちはすでに受胎のときにアダムから受けたのです。私たちはそれをすべての行いと共に脱ぎ去らなければなりません。しかし、それは服を代えることによっては成功しません。どんな律法や行いによってもだめです。それが実現するのは、パウロが「キリストにあって洗礼を受けたあなたたちは皆、キリストを身に着けたのです」と言っている通り、洗礼における新しい誕生と新しい変化によってです。
 キリストは、律法でも、律法を与える者でも、行いでもありません。キリストは、天のお父様が私たちを義とし活きる者とし贖う方として私たちに贈ってくださった、言葉では表せない神的な贈り物です。「キリストを着る」ことは律法や行いに身を包むことではなく、言いようもなく素晴らしい贈り物、すなわち、罪の赦し、義、平和、慰め、聖霊様における喜び、救い、命、つまりキリスト御自身を着ることなのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ガラテヤの信徒への手紙 3章26~27節

あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。(ガラテヤの信徒への手紙 3章26~27節)

福音にふさわしいかたちでキリストを上に着ることは、律法や行いを着込むことではなくて、想像もできないほど大きな賜物、すなわち、罪の赦し、義、平和、慰め、聖霊様における喜び、救い、命、さらにはキリスト御自身をも着ることです。「洗礼はキリストを着ることであり、たんなる外的なしるしではない」、とパウロは教えています。キリスト御自身が私たちの服です。それゆえ、洗礼は本当に力があり、すばらしいことなのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネによる福音書 11章25節

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。(ヨハネによる福音書 11章25節)
  
「人」と呼ばれるのは、
肉と血から生まれた者です。
「クリスチャン」と呼ばれるのは、
洗礼を授けられ、キリストの血により、
洗礼を通して、あらゆる罪からきれいに洗われた者です。
 
もしも誰かがあなたに、
「どうしてあなたはクリスチャンと呼ばれるのですか。
あなたの名前は別にあるでしょう」、
ときくならば、こう答えなさい、
「両親が私に名前をつけました。
しかし、キリストというお方のゆえに、私はクリスチャンと呼ばれるのです。
私がこの世を去るときに、名前で呼ばれていた私という人間は墓で死にます。
しかし、クリスチャンは死なず、葬られもせず、生きつづけます。
それゆえ、たとえ私が名前をもった人間として死ぬとしても、
それにはたいした意味がありません。
もしも私がクリスチャンならば、
私の名前で呼ばれる人間は再び墓からよみがえるからです。
私にその御名を賜った主キリストが私に言われている通りにです」。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ヨハネによる福音書 3章5節

イエス様は答えました、「まことにまことに私はあなたに言います。もしも水と御霊から生まれなければ、人は神様の御国に入ることはできません」。(ヨハネによる福音書 3章5節)

キリストが望んでおられるのは、幼い子供たちが洗礼を授けられずにその外側に見捨てられることでは決してなく、彼らもまたこの御言葉にかかわりをもつ者として扱われることです。子供たちにも洗礼を授けなさい。神様は、子供たちをも新しく生んで、子供たちの中で働きたいと望まれています。もしも子供たちをキリストの御許に連れて行くつもりならば、キリストが働かれるときに用いられる手段やしるし1を、子供たちから奪ってはなりません。私はここで洗礼を受けるのが可能なときにちゃんと守るべき一般的な秩序と規則について言っているのです。洗礼を受けるのが不可能であるような非常事態においては、洗礼を受けたいという意志と、御言葉とによって、その人をキリストにささげるために御許へと連れて行くことで十分でしょう。
(マルチン・ルター、宝石箱)


ここで「水」と呼ばれている洗礼には貴い力が込められています。それについてキリストがこの御言葉に基づき如何に明瞭に教えておられるか、注目しなさい。洗礼には聖霊様が臨在なさっています。そして洗礼を通して人は新しく生まれます。こうして、信仰と洗礼に反対するあらゆる異端的な教えと誤謬は滅ぼされます。異端としては、まず第一に、自分自身の行いによる義と救いを追求している「ローマ法王派」やその同類がいます。(・・・)第二に、御言葉やしるし(聖礼典のこと)を通さずに、その外側から、特別な啓示や影響力によって天国から直接やってくるような「霊」を求めるように促す「再洗礼派」やその同類の主張がここでは粉砕されています。彼らは洗礼を、あたかもそれが無益なただの水であるかのように、軽んじているのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

マルコによる福音書 16章16節

信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。(マルコによる福音書 16章16節)

悔い改めたときに、私たちは単純に、洗礼において私たちに与えられた約束に戻り、洗礼の力に戻り、堕落した私たちが見失ってしまっていた信仰に戻ります。悔い改める者は、なによりもまず、洗礼について考え、神様の約束を思い起こして、洗礼を受けていることを神様に感謝するべきです。
(マルチン・ルター、宝石箱)


洗礼の力、影響、利益、実、目的は、「洗礼は救う」という点にあります。洗礼が授けられる目的は、洗礼を受けた者が王侯になるためではなく、御言葉が言っている通りに、救われるためです。「救われる」ということはまた、私たちがよく知っているように、罪や死や悪魔の支配からの解放、キリストの王国への入場、キリストが共にいてくださる永遠の命に他なりません。このことからまた、どれほど洗礼を尊いものとみなすべきであるか、あなたは気づくことでしょう。洗礼において私たちは言葉では表すことのできないほど大きな宝物をいただくのです。(中略)洗礼は御言葉から力を得て、新生の洗いとなっているのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

マタイによる福音書 3章17節

そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。(マタイによる福音書 3章17節)

キリストの洗礼があなたの洗礼であり、あなたの洗礼がキリストの洗礼であるために、あなたは自分の洗礼と共にキリストの洗礼のもとへ来なければなりません。このようにすれば、あるのは「ただひとつの洗礼」だけです。洗礼は、それによって私たちの罪が洗い去られるような「洗い」なのです。二ケア信条で、次のように告白するとおりです、「ひとつの洗礼が罪の赦しを与えることを、私たちは告白します」。聖パウロはこう言っています、「キリスト・イエスへと洗礼を受けた私たちは皆、この方の死へと洗礼を受けたのです」(「ローマの信徒への手紙」6章3節)、また、「キリストへと洗礼を受けたあなたたちは皆、キリストを身に着けたのです」(「ガラテヤの信徒への手紙」3章27節)。もしも仮に洗礼が私たちに「このこと」を、すなわち罪の赦しを、もたらさないのなら、洗礼には何の益もないし、他の洗いよりすぐれているということもなくなります。「キリストは私たちのために洗礼をお受けになった」ということを、私たちは知って信じなければなりません。そして、こう言わなければなりません、「この方の洗礼は私の洗礼であり、私の洗礼はこの方の洗礼です。この方はこの世の罪を担っておられる神の小羊だからです」。
(マルチン・ルター、宝石箱)


これが、あの救い主、私たちを罪や死や悪魔や地獄から解放してくださる方です。このことから私たちは、どうすれば神様のみもとに行けるかを知ります。愛する御子キリストを通してのみ、私たちもまた、天のお父様の愛する子供になるのです。御子キリストは天のお父様のみもとに座っておられます。天のお父様は御子を見つめ、御子を抜きにしては誰に対しても好意を示されません。天のお父様の御心に適うことがあるとすれば、それは御子を通してそのようになるのです。こういうわけですから、天のお父様のみもとへ行きたい人は、この愛する御子にしっかりとしがみつき、御子におんぶしていただかなければなりません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者