タグは ‘犠牲’

ペトロの手紙二 3章17~18節

愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。(ペトロの手紙二 3章17~18節より)

「キリストが私たちのために死んでくださった」とはどういう意味か、学び、進歩し、成長するために、本気で戦いなさい。この真理が、空っぽのあぶくのように舌の上に留まるだけではなく、あなたがたの心に深く染み入って慰めを与え、勇気付け、行動へと導くようになるためです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ガラテヤの信徒への手紙 1章4節

キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。(ガラテヤの信徒への手紙 1章4節)

「私たちの罪のために」とか「私のために」とかいった言葉に
どれほど多くのことが含まれているかよく注意して考えてみなければなりません。
さらに、「私のためにささげられた」という御言葉を
はっきりとした信仰をもって受け入れ、
それを自分にもあてはめるようになりましょう。
キリストはペトロやパウロや他の使徒たちだけを愛して、
彼らだけのために御自分をささげてくださったのではありません。
そのような恵みは私たちにも同じように与えられているのです。
このことを「私のために」というこの短い言葉は意味しています。
私たちは皆罪人であり、
アダムはその罪によって私たち皆を腐敗させ、
神様の怒りや裁きや永遠の死を受けるのが当然の存在にしてしまいました。
それと同様に、キリストは、
私たちを義とするために、
私たちの罪のために死んでくださいました。
キリストは、前からすでに義である者たちを義とするために死なれたのではなく、
貧しい罪人を助けて彼らが義とされ、
神様の友、神様の愛する子供になり、
天国を継ぐ者となるために、死んでくださったのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)


クリスチャンに特有な知識や真の知恵は、
パウロの伝えたこれらの御言葉を厳粛に受け止めるところにあります。
すなわち、キリストが死なれたのは、私たちの義や聖のためではなく、
私たちの罪のためであった、ということです。
この罪は、本当に存在するものであり、大きく、おびただしく、数え切れず、
とても打ち勝つことができないほどのものです。
そういうわけですから、
「自分の罪は些細なものだから、自分の行いで取り去ることができるだろう」
などと思い違いしてはいけません。
また、人生の中で自分の罪の深刻さに気付かされ、
「自分の罪はあまりに大きすぎる。絶望だ」
などと落ち込む必要もありません。
このパウロの言葉を通して次のことを信じるようになりなさい、
「キリストはたんに想像上のものではない本当に存在する大きな罪のために
死んでくださったのだ。また、すでに克服された罪のためではなく
(なぜなら、どんな人間も天使も一番小さい罪にさえ勝つことができないから)、
打ち勝つことができない罪のために死んでくださったのだ」。
もしもあなたが、この信仰の教えをしっかり保っている私たち、
言い換えれば、その教えを愛し信じている人々の中に入っていないのならば、
あなたの救いはまったく失われています。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)


この悪の世からわたしたちを救い出そうとして(ガラテヤの信徒への手紙 1章4節より)

今の世は悪いため、
自分の行いや力によっては誰も罪を取り除くことができないことを、
この御言葉は教えています。
ヨハネが、「この世全体が悪い者の支配下にあるのです。」、と言う通りです
(ヨハネによるの手紙一 5章19節)。
キリストを差し置いて事を進める場合、
あなたの賢さはその倍の愚かさになり、
あなたの義はその倍の罪や悪行になります。
それは、キリストの知恵や義について無知であるためです。
さらに、あなたの賢さは、キリストの知恵を暗くし、妨げ、侮り、迫害します。
ですから、パウロが世を悪と呼ぶのは正しいのです。
世はそれが最良の時こそ最悪だからです。
真摯な人々、賢い人々、また博識の人々などは
世の最良の部分の具体的な表れといえます。
しかし実のところ、彼らはその美徳の倍も悪い存在なのです。
両親や世の権威などに対する不従順、姦淫などの性的な犯罪、
貪欲、盗み、殺し、嫉妬、怒りなど、
神様の十戒の二枚目の石板に刻まれている律法(第四戒から第十戒まで)
に対するあからさまな罪については、ここではこれ以上触れません。
これらの罪の中に世は完全に沈みこんでいます。
しかしそれらの罪は、
十戒の一枚目の石版に刻まれている律法(第一戒から第三戒まで)
に歯向かう、神様を無視する人々の賢さにくらべたら、
まだ軽い犯罪だというべきでしょう。
人々を霊的な罪に追いやり、
自分は義であるかのように振舞う「白い悪魔」は、
この世でさえ罪だとみなす肉的な罪に
人々を駆り立てる「黒い悪魔」よりも、
はるかに害をもたらします。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

コリントの信徒への手紙一 15章17~20節

そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。(コリントの信徒への手紙一 15章17~20節)

次のことをよく考えてみなさい。もしも神様があなたの罪をキリストの上に投げて、それらがもはやあなたの上にないならば、キリストが復活された後に、それらの罪はどこにあるのでしょうか。というのは、それらはもはやキリストの上にもないからです。預言者ミカが言っているように、それらは悪魔もいかなる被創造物ももはや見つけることができないような海の底にあるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

コリントの信徒への手紙一 5章7節

キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。(コリントの信徒への手紙一 5章7節より)

「私たちの過ぎ越しの羊であるキリストがほふられている」という聖パウロの御言葉はどういう意味でしょうか。それについて私たちは受難の歴史から聞いて知っています。ここでは二つのことに注目するべきです。まず第一に、私たちは、罪に対する神様の猛烈な怒りを思い起こさなければりません。この怒りを和解によって鎮めることができるのは、唯一の犠牲、神様の御子の死と血のみです。私たちは皆、自分自身の罪によってこの怒りの原因となっており、神様の御子が犠牲となられ、十字架でその血を流すほかないような事態を招きました。第二に、私たちは、私たちに対する神様の恵みと愛を見てそれを覚えなければなりません。それは、私たちが神様の怒りから解放されるためになぜ神様はその独り子を惜しまれずに十字架の死に渡されたのかについて、自分の罪のひどさを知った私たちがよく考えてみるためなのです。これより大きな愛のわざがありうるでしょうか。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネによる福音書 19章34節

しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。(ヨハネによる福音書 19章34節)

主イエス・キリストのわきから流れている血こそは、私たちをあがないだすために必要な、私たちの罪を完全に帳消しにする「値段」です。故なく受けた苦しみと死によって、また十字架で流された聖なる尊い血によって、愛する主イエス・キリストは、私たちのすべての罪の負債を支払ってくださり、自分自身の罪のゆえに永遠の死と滅びに支配されていた私たちをあがないだしてくださいました。このキリストの血は神様のみもとで、私たちを守るために休みなくこう叫び続けています、「憐れんでください!憐れんでください!赦してください!赦してください!お父様!お父様!」。このようにしてキリストの血は、私たちのために、神様のあわれみと罪の赦し、また義と救いをそなえてくださったのです。父なる神様は今、神様と私たちの仲介をしてくださるこの愛する御子の叫びと私たちのためのとりなしの祈りとを聴いてくださり、弱々しい罪人である私たちをあわれんでくださいます。私たちはすみずみまで罪にまみれているにもかかわらず、神様は私たちの中にひとつの罪も見出しません。神様は、愛する御子イエス・キリストの比類なき尊い血だけを見ておられるからです。そして、この血によって私たちは清くすすがれているのです。この血こそが、黄金の恵みの衣装です。この血によって、私たちはおおわれています。この血に包まれて、私たちは神様の御前に進み出ます。それゆえ、神様は私たちを、あたかも義と聖と無垢に満ちた愛する御子であるかのようにみなしてくださるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネによる福音書 19章28~30節

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネによる福音書 19章28~30節)

それは成し遂げられました。神様の小羊はこの世の罪のためにほふられ、犠牲として捧げられました。真の大祭司は「犠牲を捧げる」という御自分の仕事をやり遂げられました。神様の御子は御自分のからだと霊を差し出して罪の代価としてそれを捧げたのです。罪は滅ぼされ、神様の怒りは鎮められました。死は敗北し、天国が確保され、天が開かれたのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネによる福音書 3章14~15節

そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書 3章14~15節)

神様の独り子は、私たちの身代わりに罪を贖うための犠牲とならなければなりませんでした。この犠牲によって、神様の怒りはなだめられ、私たちは罪から贖い出されるのです。このみわざが今の私たちの救いや慰めであり、洗礼において働いている力となっています。それは、私たちが新しく生まれて、天国に入るためなのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネによる福音書 1章29節

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。(ヨハネによる福音書 1章29節)

この世の初めから終わりまでのすべての罪は、神の小羊の上に投げかけられました。あなたもこの世に生きており、この世の一部なので、このことはあなたにも関係があります。「私たちはキリストにあって、神の小羊にあって、罪の赦し、神様の御好意と恵み、それから永遠の命をいただいている」と、もしも私たちが信じているならば、罪は私たちに危害を加えることができません。神様は私たちを愛し、憐れんでくださいます。そして死や地獄は私たちを縛り付けることができません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルカによる福音書 1章35節

だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。(ルカによる福音書 1章35節より)

「神様とマリアの子である主イエス・キリストは、その罪なく流された血の力によって私たちを罪や死や神様の永遠の怒りから贖うために、私たち哀れな罪人のために苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られました。この方は三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、父なる全能の神様の右の座におられます」。このことを私は信じます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

イザヤ書 53章12節

(その方は)多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。(イザヤ書 53章12節より)

私たちはキリストが苦しまれた十字架を
他ならぬ「聖壇」とみなさなければなりません。
この聖壇でキリストは、
御自分のからだと霊とを私たちの罪のために捧げて、
苦しみの只中で祈られました。
それは、
キリストが御自分の牧師としての職務を証して、
私たちを恵みへと導き、罪から引き離し、
永遠の死から解放するためでした。
罪を取り除く方は、死をも取り除かれるのです。
パウロが教えているように、
死は罪の報酬です(「ローマの信徒への手紙」6章23節)。
罪がないところには、死も力を振るうことがありません。
死のないところには、悪魔や地獄もありません。
かわりにそこにあるのは、永遠の義と命と救いです。
キリストが十字架で、
御自分の犠牲と祈りによって、罪を取り去ってくださったいま、
死や悪魔や地獄は、私たちに対してもはや何の権威ももっていません。
(中略)
これは私たちの喜びであり慰めです。
私たちはそれについて心からキリストに感謝し、心を込めて宣教するべきです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

イザヤ書 53章11節

義なる私の僕はその知識によって多くの人を義とし、また彼らの不義をその身に引き受けます。(イザヤ書 53章11節より)

ここでは再び「キリストを知ることによってのみ、人は義とされる」理由が述べられています。預言者イザヤが言っているように、キリストは、私たちの不義をひとりで自らの上に引き受けてくださった神様の僕です。それゆえ、私たちはこのキリスト教の「義」の定義にゆるがずに留まらなければなりません。それは、私たちが絶望して、キリストが恐るべき裁判官や処刑執行官であるかのような間違った思い込みに陥ったりしないためです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者