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コロサイの信徒への手紙 1章12~14節

光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。(コロサイの信徒への手紙 1章12~14節)

福音は私たちに、死から命への救いと、罪から義への救いを、また、地獄やあらゆる悪からの贖いを宣べ伝えています。福音は私たちを暗闇の国から神の国へと移してくれます。これらすべてはあまりに偉大なことなので、使徒は自分がそれを言葉で表現できるとは思っていません。これ以上的確にはその偉大さを表現できないほど素晴らしく語っているにもかかわらず、彼はそう言っているのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

エフェソの信徒への手紙 1章13~14節

あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。(エフェソの信徒への手紙 1章13~14節)

福音は、神様の恵みの「甘さ」についての愛らしい説教です。太陽光線があらゆるところを暖かくするのと同じように、それが説教されまた聴かれるところに聖霊様を連れてくるほど、それは本当に甘いのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ガラテヤの信徒への手紙 2章18節

もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。(ガラテヤの信徒への手紙 2章18節)

私は福音の説教によって律法を滅ぼしました。
それは、律法がもはや良心を支配しないためです。
なぜなら、
新しい住人なるキリストが、
おひとりで住まわれるために新しい部屋へと引越して来られたので、
古い住人なるモーセは、そこから退いて、
他のところへと引っ越さなければならないからです。
しかし、
新しい住人なるキリストがおられるところには、
律法も罪も怒りも死もありません。
そこにあるのは、恵みと義と喜びと命のみであり、
キリストのゆえに怒りを鎮めてくださった、
憐れみ深く恵みに満ちたお父様のもとへと避けどころを求める
子供の心があるだけです。
私は今
キリストを追い払って、
私が福音によって植えたキリストの王国を滅ぼし、
再び律法に権力を与え、
モーセの王国を再建するべきでしょうか?
もしも私が偽使徒どものように
「割礼[1]と律法の遵守は救われるために不可欠である」
と教えるならば、そうなってしまうでしょう。
そして、
私は義や命の代わりに罪や死を再びもちだすことになるでしょう。
律法は罪のみを示し、怒りと死をもたらすものだからです。
 
[1] 生まれて8日目に男の赤ちゃんの性器の包皮の一部を切り取る、ユダヤ人の儀式のこと。

ガラテヤの信徒への手紙 2章5節

福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。(ガラテヤの信徒への手紙 2章5節)

ここで「福音の真理」とは福音の内容や意図ではなく、福音の正しい使用法であることに注目するべきです。福音の真理とは、「すべては清い者にとって清く、戒めは死んでいて誰をも強制できないので、救われ義とされるためには何の行いも必要ないことを知ること」にほかならないからです。私たちは「戒め」(十戒など)を、あたかもそれが存在しないがごとく、しかし愛に基づいて守ってゆこうではありませんか。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ガラテヤの信徒への手紙 1章4節

キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。(ガラテヤの信徒への手紙 1章4節)

「私たちの罪のために」とか「私のために」とかいった言葉に
どれほど多くのことが含まれているかよく注意して考えてみなければなりません。
さらに、「私のためにささげられた」という御言葉を
はっきりとした信仰をもって受け入れ、
それを自分にもあてはめるようになりましょう。
キリストはペトロやパウロや他の使徒たちだけを愛して、
彼らだけのために御自分をささげてくださったのではありません。
そのような恵みは私たちにも同じように与えられているのです。
このことを「私のために」というこの短い言葉は意味しています。
私たちは皆罪人であり、
アダムはその罪によって私たち皆を腐敗させ、
神様の怒りや裁きや永遠の死を受けるのが当然の存在にしてしまいました。
それと同様に、キリストは、
私たちを義とするために、
私たちの罪のために死んでくださいました。
キリストは、前からすでに義である者たちを義とするために死なれたのではなく、
貧しい罪人を助けて彼らが義とされ、
神様の友、神様の愛する子供になり、
天国を継ぐ者となるために、死んでくださったのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)


クリスチャンに特有な知識や真の知恵は、
パウロの伝えたこれらの御言葉を厳粛に受け止めるところにあります。
すなわち、キリストが死なれたのは、私たちの義や聖のためではなく、
私たちの罪のためであった、ということです。
この罪は、本当に存在するものであり、大きく、おびただしく、数え切れず、
とても打ち勝つことができないほどのものです。
そういうわけですから、
「自分の罪は些細なものだから、自分の行いで取り去ることができるだろう」
などと思い違いしてはいけません。
また、人生の中で自分の罪の深刻さに気付かされ、
「自分の罪はあまりに大きすぎる。絶望だ」
などと落ち込む必要もありません。
このパウロの言葉を通して次のことを信じるようになりなさい、
「キリストはたんに想像上のものではない本当に存在する大きな罪のために
死んでくださったのだ。また、すでに克服された罪のためではなく
(なぜなら、どんな人間も天使も一番小さい罪にさえ勝つことができないから)、
打ち勝つことができない罪のために死んでくださったのだ」。
もしもあなたが、この信仰の教えをしっかり保っている私たち、
言い換えれば、その教えを愛し信じている人々の中に入っていないのならば、
あなたの救いはまったく失われています。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)


この悪の世からわたしたちを救い出そうとして(ガラテヤの信徒への手紙 1章4節より)

今の世は悪いため、
自分の行いや力によっては誰も罪を取り除くことができないことを、
この御言葉は教えています。
ヨハネが、「この世全体が悪い者の支配下にあるのです。」、と言う通りです
(ヨハネによるの手紙一 5章19節)。
キリストを差し置いて事を進める場合、
あなたの賢さはその倍の愚かさになり、
あなたの義はその倍の罪や悪行になります。
それは、キリストの知恵や義について無知であるためです。
さらに、あなたの賢さは、キリストの知恵を暗くし、妨げ、侮り、迫害します。
ですから、パウロが世を悪と呼ぶのは正しいのです。
世はそれが最良の時こそ最悪だからです。
真摯な人々、賢い人々、また博識の人々などは
世の最良の部分の具体的な表れといえます。
しかし実のところ、彼らはその美徳の倍も悪い存在なのです。
両親や世の権威などに対する不従順、姦淫などの性的な犯罪、
貪欲、盗み、殺し、嫉妬、怒りなど、
神様の十戒の二枚目の石板に刻まれている律法(第四戒から第十戒まで)
に対するあからさまな罪については、ここではこれ以上触れません。
これらの罪の中に世は完全に沈みこんでいます。
しかしそれらの罪は、
十戒の一枚目の石版に刻まれている律法(第一戒から第三戒まで)
に歯向かう、神様を無視する人々の賢さにくらべたら、
まだ軽い犯罪だというべきでしょう。
人々を霊的な罪に追いやり、
自分は義であるかのように振舞う「白い悪魔」は、
この世でさえ罪だとみなす肉的な罪に
人々を駆り立てる「黒い悪魔」よりも、
はるかに害をもたらします。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

コリントの信徒への手紙二 4章3節~4節

わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。(コリントの信徒への第2の手紙 4章3節~4節)

この世は、神様の御言葉を無価値なものとみなして迫害するとき、かたくなになり判断力を失って、その堕落の原因をすべて愛すべき福音のせいにします。しかし、神様に感謝します!、実はこの福音のみがこの世にまだ残っている「よいもの」すべてを支えてくださっているのです。それなのに福音は、悪魔やその手下どものしわざについて責任を追及されています。
(マルチン・ルター、宝石箱)

コリントの信徒への手紙二 3章4~6節

わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。(コリントの信徒への手紙二 3章4~6節)

文字の働きによっては、誰も神様の怒りに耐えられません。聖霊様の働きによってなら、神様の恵みのゆえに、誰も滅びることはありえません。聖霊様は私たちを活ける者にしてくださいます。聖なる唯一の福音、健康的で、救いをもたらすメッセージ、愛らしく慰めに満ちた御言葉こそが、悲しみに沈んだ心を慰め、元気付けてくれるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

コリントの信徒への手紙一 15章3~4節

最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、(コリントの信徒への手紙一 15章3~4節)
 
ここで、パウロは、(旧約)聖書を最強の証拠として挙げつつ、聖書なしには正しい教えと信仰を保てないことを明示しています。
大切なのは書かれている御言葉、聖書です。
しかし、敵対者は「大切なのは聖書ではなく、霊だ」と主張し、「霊によって決まるのだ、御言葉は、死んだ文字に過ぎないのだから、命を与えるようなことはできっこない」などと言います。
しかし、私は言います。
もしも啓示された御言葉の中にとどまるつもりがないならば、霊について誇るのを止めなさい。
その霊はよい霊どころか、たちの悪い地獄の悪魔だからです。
聖霊様は、すべての知恵と助言とを御言葉に集めて、聖書の中に啓示してくださいました。
それは、誰も、自分の正しさを弁護できないようにし、自分の救いのために知っておくべきことを聖書以外から探求しないようにするためです。
神様の御子、私たちのために死んで復活してくださった、私たちの救い主イエス・キリスト、についての聖書の教えよりも上位にくるような優れた教えは、ひとつも存在しないのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ローマの信徒への手紙 11章6節

もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。(ローマの信徒への手紙 11章6節)

私たちの救いは、律法と福音の両方に基づくことはできません。私たちは、信仰を通して義とされ、その結果律法の義を失うか、あるいは、律法を通して義とされ、恵みと信仰の義を失うか、そのどちらかです。恵みを失い律法に頼ることは、恥ずべき不幸な喪失です。しかし、律法を失い恵みに頼ることは、それとは逆に、救いの幸せに満ちた喪失です。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ローマの信徒への手紙 10章16~17節

しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ローマの信徒への手紙 10章16~17節)

信仰は聴くことから生まれます。人が聴くようになるのは、神様の御言葉とキリストについての宣教を通してです。この宣教が「福音」、すなわち、あらゆる善と救いの始まり、継続、完成です。福音はキリストについてのよき知らせであり、宣教です。キリストは善、愛、恵みそのものです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ローマの信徒への手紙 10章4節

キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。(ローマの信徒への手紙 10章4節)

誰でも、福音が訪れる前には、律法を私たち自身の行いを要求しているものとして理解します。律法についてのこのような考え方は、私たち人間を、かたくなで、自己満足的で、自分の行いを誇る、石甕のように硬い(「ヨハネによる福音書」2章)偽善者にするか、あるいは、まわりから圧迫を受けて苦しみを受け、平安を欠いた良心の持ち主にします。
 (中略)
しかし、福音は、律法が、私たち人間には不可能なことを要求しており、私たち自身ではない他のあるお方がその要求を満たすことを望んでいる、という説明を与えます。言い換えれば、律法はキリストを要求しており、私たちをキリストのみもとへと追いやるのです。それは、私たちが、御言葉の恵みを通して信仰へと導かれて、別の人間になり、キリストに似た者となり、正しくてよい行いをするようになるためです。律法の真の意味と目的は、私たち人間が自分の力では律法を満たすことができないことをあきらかに示して、私たちが恵みや助けを、他のお方に、すなわちキリストに求めるように追い立てることなのです。
 (中略)
私たちの心が、キリストは私たちのために律法を満たし、私たちの罪を引き取ってくださったことを聞くときに、律法が私たちに対して不可能なことを要求していることをもはや気にかけたりはしないし、(律法に従おうとする)行いをやめてしまって、絶望に落ち込んだりもしません。そうです。律法が、偉大なことを要求する、深く高く聖く正しくよいものであることが、いまや本当にすばらしいと実感できるようになります。そして、律法が要求している内容の豊富さと大きさのゆえに、律法は愛され賛美されるようになります。そのような心の持ち主は、福音のおかげで、キリストにあって、律法の要求していることをすべてもっていることになります。
(中略)
御覧なさい。こうして律法は、以前には厳しく重く不可能なものであったのに、いまや愛すべき軽いものに変わっています。律法は、今では御霊によって心に書き込まれているからです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ローマの信徒への手紙 8章3~4節

肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。(ローマの信徒への手紙 8章3~4節)

与えることと受け取ることが異なり、あるいは、要求することと贈ることが異なっているのと同じように、律法と福音とは互いに遠く隔たっています。この相違をはっきりしなければなりません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

使徒言行録 13章32~33節

わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、/『あなたはわたしの子、/わたしは今日あなたを産んだ』/と書いてあるとおりです。(使徒言行録 13章32~33節)

福音は、キリストをあらゆる恵みの賜物と共に約束し提供する、命の言葉、恵みの教え、喜びの光です。
(マルチン・ルター、宝石箱)

使徒言行録 13章26節

兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。(使徒言行録 13章26節)

パウロがここでキリストについて宣べ伝えている、御言葉に含まれている解放と救いは、自分たちが神様の子供でありつづけ、キリストの御国が自分たちの中にあることを知るために、私たちが知っておかなければならない最高の教えです。それは救いと平和の御言葉であり、確実に救いと平和をもたらします。なぜなら、それは神様が与えてくださるものだからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

使徒言行録 8章5~6、8節

フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。(・・・)町の人々は大変喜んだ。(使徒言行録 8章5~6、8節)

正しい信仰はいつでも神様における慰めと喜びをもたらします。しかし、このような慰めや喜びを体験できるのは、悔いる心と畏れの心をいだいている人だけです。キリストがこう言われているとおりです、「貧しい者たちに福音が宣べ伝えられています」。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネによる福音書 3章16節

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書 3章16節)

信仰こそが、宝物を収める器です。
神様が「与え手」として私たちに賜るように、
私たちは信仰を通して「受け手」となるからです。
この信仰は、賜物を受け取る以外には何もしません。
この賜物が「私たちのもの」であるのは、
私たちの行いや功績のおかげではありません。
すべては私たちへの贈り物なのです。
口というより心を開いて、じっとしていなさい。
そして自分をそれで満たしていただきなさい(詩編 81編11節)。
信仰とは、「私たちが御子のおかげで滅びずに永遠の命をいただけるように、
神様はその独り子を賜った」、と本当に信じることです。
そのような信仰は、自分の力を省みたりしないし、
「自分はそれにふさわしい存在かどうか」などとは悩みません。
信仰は、自分に目を向けるのをやめて、
キリストに堅くつながり、キリストを「自分のもの」として受け入れます。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ルカによる福音書 13章20~21節

また言われた。「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」(ルカによる福音書 13章20~21節)

この世から福音を滅ぼし去るのは、膨らんだパンの生地からパン種を分けるのと同じくらい不可能なことです。生地はもう膨らんでいます。悪魔はパン種を生地から分けることができません。煮たり焼いたり焦がしたり浸したりしたとしても無理です。救いに与っている者たちが皆、余すところなく膨らむようになるまで、「キリスト・パン種」は終わりの日まで生地に留まりつづけます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

マタイによる福音書 12章18~19節

「この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。(マタイによる福音書 12章18~19節より)

神様はこれを「裁き」と名づけておられます。なぜなら福音は、私たち自身のあらゆる義を斥け、罪を拭い去って永遠の裁きを無効にした「キリストの義」だけを賛美し、また差し出すからです。貧しく罪のなかに死んでおり、地獄で滅ぶという裁きの下にある人間が、尊く優しいこのキリストについての御言葉以上に慰めに満ちた言葉を聞くことはありえません。もしも人がそれを本気で信じるなら、その心は喜びに溢れます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

マタイによる福音書 11章5節

目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。(マタイによる福音書 11章5節)

「福音」とは、キリストについて宣べ伝えることです。この福音は罪人にこう言います、「私の子よ、安心して喜びなさい。恐れてはいけません。キリストは、貧しい惨めな悲しみの心の持ち主たちにところに、恵みを伝えて与えるために来られたのですから。この方はあなたのために、神様にふさわしい永遠の清さを捨てて、あなたの罪を洗い落とし、あなたを神様と仲直りさせ、御自分を犠牲にしてあなたに罪の赦しと永遠の命を確保し、贈り届けてくださったのです」。
(マルチン・ルター、宝石箱)

マタイによる福音書 5章17節

(イエス・キリスト)「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイによる福音書 5章17節)

律法は病気を明示し、福音は薬を与えてくれます。

律法は、私たちが何をするべきか、を教え、
それと反対に、
福音は、神様は何を与えたいと思われているか、を教えてくれます。
 
律法は光です。
律法が照らし出し啓示するのは、
神様の恵みではなく、
永遠の命をいただけるようにするような義でもありません。
律法が明示するのは、
罪であり、私たちの惨めな状態であり、
死であり、神様の怒りと裁きです。
福音は律法とはまったく異なる光です。
福音は、明るくし、活気を与え、
慰め、怯えた心を立ち直させてくれます。
 
律法は、人を懲らしめますが、
自分自身のためにそうするのではありません。
その目的は、人をキリストの御許へと追いやるためです。
もしも生徒を懲らしめてばかりいて、
彼らに何も教えない教育者がいたとしたら、
どんなにひどいことでしょう。

もしもキリストが私や全世界の罪を
御自分の上に引き受けてくださらなかったとしたら、
律法はキリストに対して何の権限ももたなかったことでしょう。
なぜなら、律法は罪人のみを裁くものだからです。
しかし、キリストは
「救いの幸せに満ちた交換売買」を行ってくださいました。
イエス様は私たちの罪深さを引き受け、
そのかわりに、
罪なく勝利に満ちた自分自身を私たちにプレゼントしてくださったのです。
「キリストを着る者」[1]として、
私たちは律法ののろいから解放されています。
 
金の指輪に宝石がちりばめられているように、
クリスチャンの心の中には、律法の主なるキリストがいてくださいます。
 
キリストは、
律法に対して律法となり、
罪に対して罪となり、
死に対して死となってくださいました。
それは、
キリストが私たちを律法ののろいからあがないだして、
義とし、
罪や死から救い出して、
活きる者とするためです。

[1]「ガラテアの信徒への手紙」3章27節にこうあります、「キリスト(の中)へと洗礼を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです」(訳者註)。

(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者