タグは ‘罪’

ヨハネの手紙一 2章7節

愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。(ヨハネの手紙一 2章7節)

クリスチャンは、罪の誘惑を相変わらず感じているがゆえに心のなかで苦しみつつ自分の罪を告白する罪人です。罪を知らない者はクリスチャンではありません。もしもあなたがそのような者に出会うなら、あなたは反キリストに出会うのであって、クリスチャンに出会うのではありません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネの手紙一 1章8節

自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。(ヨハネの手紙一 1章8節)

クリスチャンを外から見える生活態度に基づいて評価することはできません。なぜなら、たとえ人が自分の良心に反するような罪の生活を公然と送っていない場合であっても、それで「その人には罪も落ち度もない」ということにはならないからです。それゆえ、クリスチャンは日々「私たちの罪を赦してください」と祈るのです。(中略)クリスチャンを知り正しく評価したい者は、それを信仰において行いなさい。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ペトロの手紙一 2章16節

自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。(ペトロの手紙一 2章16節)

クリスチャンは次のように言ってはいけません、「律法から自由になっているのだから、自分のやりたいことを私は今やるんだ」。クリスチャンはそれとは正反対の仕方で話しまた行動しなければなりません、すなわち、今の自由の状態から、かつて律法や神様の怒りの下で苦しめられていた罪の奴隷状態へと逆戻りしたり、命から死へとふたたび落ち込んだりしないために、クリスチャンとして罪を恐れて避けなければなりません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ガラテヤの信徒への手紙 1章4節

キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。(ガラテヤの信徒への手紙 1章4節)

「私たちの罪のために」とか「私のために」とかいった言葉に
どれほど多くのことが含まれているかよく注意して考えてみなければなりません。
さらに、「私のためにささげられた」という御言葉を
はっきりとした信仰をもって受け入れ、
それを自分にもあてはめるようになりましょう。
キリストはペトロやパウロや他の使徒たちだけを愛して、
彼らだけのために御自分をささげてくださったのではありません。
そのような恵みは私たちにも同じように与えられているのです。
このことを「私のために」というこの短い言葉は意味しています。
私たちは皆罪人であり、
アダムはその罪によって私たち皆を腐敗させ、
神様の怒りや裁きや永遠の死を受けるのが当然の存在にしてしまいました。
それと同様に、キリストは、
私たちを義とするために、
私たちの罪のために死んでくださいました。
キリストは、前からすでに義である者たちを義とするために死なれたのではなく、
貧しい罪人を助けて彼らが義とされ、
神様の友、神様の愛する子供になり、
天国を継ぐ者となるために、死んでくださったのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)


クリスチャンに特有な知識や真の知恵は、
パウロの伝えたこれらの御言葉を厳粛に受け止めるところにあります。
すなわち、キリストが死なれたのは、私たちの義や聖のためではなく、
私たちの罪のためであった、ということです。
この罪は、本当に存在するものであり、大きく、おびただしく、数え切れず、
とても打ち勝つことができないほどのものです。
そういうわけですから、
「自分の罪は些細なものだから、自分の行いで取り去ることができるだろう」
などと思い違いしてはいけません。
また、人生の中で自分の罪の深刻さに気付かされ、
「自分の罪はあまりに大きすぎる。絶望だ」
などと落ち込む必要もありません。
このパウロの言葉を通して次のことを信じるようになりなさい、
「キリストはたんに想像上のものではない本当に存在する大きな罪のために
死んでくださったのだ。また、すでに克服された罪のためではなく
(なぜなら、どんな人間も天使も一番小さい罪にさえ勝つことができないから)、
打ち勝つことができない罪のために死んでくださったのだ」。
もしもあなたが、この信仰の教えをしっかり保っている私たち、
言い換えれば、その教えを愛し信じている人々の中に入っていないのならば、
あなたの救いはまったく失われています。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)


この悪の世からわたしたちを救い出そうとして(ガラテヤの信徒への手紙 1章4節より)

今の世は悪いため、
自分の行いや力によっては誰も罪を取り除くことができないことを、
この御言葉は教えています。
ヨハネが、「この世全体が悪い者の支配下にあるのです。」、と言う通りです
(ヨハネによるの手紙一 5章19節)。
キリストを差し置いて事を進める場合、
あなたの賢さはその倍の愚かさになり、
あなたの義はその倍の罪や悪行になります。
それは、キリストの知恵や義について無知であるためです。
さらに、あなたの賢さは、キリストの知恵を暗くし、妨げ、侮り、迫害します。
ですから、パウロが世を悪と呼ぶのは正しいのです。
世はそれが最良の時こそ最悪だからです。
真摯な人々、賢い人々、また博識の人々などは
世の最良の部分の具体的な表れといえます。
しかし実のところ、彼らはその美徳の倍も悪い存在なのです。
両親や世の権威などに対する不従順、姦淫などの性的な犯罪、
貪欲、盗み、殺し、嫉妬、怒りなど、
神様の十戒の二枚目の石板に刻まれている律法(第四戒から第十戒まで)
に対するあからさまな罪については、ここではこれ以上触れません。
これらの罪の中に世は完全に沈みこんでいます。
しかしそれらの罪は、
十戒の一枚目の石版に刻まれている律法(第一戒から第三戒まで)
に歯向かう、神様を無視する人々の賢さにくらべたら、
まだ軽い犯罪だというべきでしょう。
人々を霊的な罪に追いやり、
自分は義であるかのように振舞う「白い悪魔」は、
この世でさえ罪だとみなす肉的な罪に
人々を駆り立てる「黒い悪魔」よりも、
はるかに害をもたらします。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ガラテヤの信徒への手紙 1章3~4節

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。(ガラテヤの信徒への手紙 1章3~4節)

罪の重荷があなたをおびえさせ、キリストのもとから逃げ出させようとするとき、次のことを思い出しなさい。キリストは想像にすぎない罪のためにこの世に来られたのではなく、本当の罪のために来られました。小さい些細な罪のためではなく、とてつもなく大きいひどい罪のために来られました。一人か二人の罪のためではなく、人間が勝って既に取り除いた罪のためではなく、人間には打ち勝つことのできない罪のために来られたのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

コリントの信徒への手紙一 10章12節

だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。(コリントの信徒への手紙一 10章12節)

いろいろな躓きがやってくることを、私は十分すぎるほど知っています。人が罪に落ち込んだ後にまた罪から立ち上がるようになるのは、不思議なことです。ペトロが罪に陥ったのは「自分が人間にすぎない」ことを理解するためでした。その梢が天に届かんばかりのレバノンの杉の木々は倒れます。楽園で天使やアダムが罪に落ちたのは、奇跡の中の奇跡です。そういうわけですから、かよわい葦が嵐で折れてしまうのは、いったい不思議なことでしょうか?
(マルチン・ルター、宝石箱)

ローマの信徒への手紙 8章13節

肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。(ローマの信徒への手紙 8章13節)

ここでパウロが言っているのは、クリスチャンの中にもまだ殺すべき肉、言い換えるなら、神様の御命令に反抗するあらゆる誘惑や欲望が残っている、ということです。これらは人間の性質の中で活発に活動し、パウロが「罪のわざ」と呼んでいる様々な罪へ人間を陥れようとします。「罪のわざ」とは、不信仰な考え、疑い、肉的な欲望を悲しまない心、神様を畏れない傲慢さ、神様の御言葉と祈りに対する冷淡さと鈍さ、苦難の中での忍耐不足と不平、隣人に対する憤懣、復讐心や嫉妬や怒り、貪欲、姦淫などのことです。これらの罪の傾向は人間の性質の中にあるため、それらは人間の中でたえず活動し、人間を誘惑へとそそのかしています。御霊は肉を殺してくださるためには、まず、人は自分の罪を告白しなければなりません。そして、罪深い欲望が自分の中で動めくのを感じる場合には、心を落ち着かせて神様の御言葉を思い起こさなければなりません。また、それらの罪と戦うときには、罪の赦しを信じて自分を強めなければなりません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ローマの信徒への手紙 7章22~23節

「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。(ローマの信徒への手紙 7章22~23節)

パウロや聖人たちを罪のない者と見なそうとしている人々は、あまり考えずに御心に反することをしています。彼らは信仰の教えについて無知であるがゆえにこのような主張をするのですが、こうすることで彼らは教会からその最大の慰めを奪い去り、罪の赦しについての教えやキリストを無意味なものにしてしまうからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ローマの信徒への手紙 3章10(後半)~12節

「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。(ローマの信徒への手紙 3章10(後半)~12節)

神様は義や正しさや命や力を誰からも見出されません。神様がこれらすべてを私たちに与えてくださるのです。あなたに義や命や力や強さが欠けているときに、疑いにとらわれてはなりません。あなたは自分の悪さをより深く知れば知るほど、自分の目にあなた自身がより悪く映れば映るほど、それだけ速やかに神様はあなたに恵みを与えてくださいます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネによる福音書 16章8節~9節

その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、(ヨハネによる福音書 16章8節~9節)

いと高きお方が罪とみなされることを、私たちも罪と認めましょう。
ここで言われているように、不信仰は罪です。
ところで、「キリストを信じる」とはどういうことでしょうか?
それは、
「キリストが神様である」とか、
「キリストは天国で父なる神様と共に同じ力によって支配している」
ということを信じることだけではありません。
この程度なら他の多くの人たちも信じています。
キリストへの信仰の核心は、
「恵み深い神様なるキリストが、私の罪を取り去り、
私と父なる神様を仲直りさせてくださったおかげで、
私の罪はキリストに属し、
キリストの義は私に属するようになっている」、
と信じることです。
ここで「交換」が生じています。
世のすべての罪はキリストの上にあり、
キリストにおける父なる神様の義は、
私たちのすべての罪を飲み込みたいのです。
そして、この信仰こそが、
私をきよめて御父様に喜んで受け入れていただける存在にします。
たとえ義とされた信仰者の中に罪が残っていたとしても、
それらの罪は彼らの罪とはみなされず、
それらが彼らを滅ぼすことはできません。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

マタイによる福音書 3章15節

イエス様は答えて彼(洗礼者ヨハネ)に言われました、「今はそうさせなさい。すべての義を満たすのはこのように私たちにふさわしいからです」。そのときヨハネは(イエス様が彼から洗礼を受けるのを)許しました。(マタイによる福音書 3章15節)

「あらゆる義を満たすこと」は、正しくあろうとはしないことであり、自分のなかに何かよいものが見出せるなどと信じずに、自分を罪人として告白することです。これは二重の義です。まず、魂はキリストへの信仰によって義です。次に、その人は自分を義とは見なさず、汚らしいだけの罪人と見なしています。もともと私たちは皆そのような者なのです。肉が塵になるまで罪は肉にとどまっているからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

エレミヤ書 13章23節

クシュ人は皮膚を/豹はまだらの皮を変ええようか。それなら、悪に馴らされたお前たちも/正しい者となりえよう。(エレミヤ書 13章23節)

これが原罪、生まれながら人間に染み付いている本当の罪の核心です。もしも原罪がなければ、本当の罪などは存在しないところです。ほかのすべての罪とは違い、これは行いによる罪ではありません。これは活動を続け、ほかのすべての罪を引き起こします。これは罪の中の罪です。この罪は時折行われるものではありません。人間がいるあらゆる場所、またあらゆる時間に、この罪もまた存在しています。(中略)人が自分の力で自分自身を自然に生むことができないのと同じように、人はこの原罪なしで生活したり、原罪から自分を解放することもできません。私たちの造り主なる神様にのみそれが可能です。それゆえ、神様は私たちにまず律法を与え、それによって私たちがこの原罪を知り、恵みを渇望するようになさったのです。そして次に福音を与えて、それをとおして私たちに助けを提供してくださるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

士師記 7章24節前半

ギデオンは、使者をエフライム山地の至るところに送って、言った。「下って来て、ミディアン人を迎え撃ち、ベト・バラまでの水場とヨルダン川を占領せよ。」(士師記 7章24節前半)

私たちの愛する主キリストは罪や悪魔や死に勝利し、それらを追い払われたのですから、私たちもこれらの敵を圧迫し追討しなければなりません。私たちはそれらに屈従するのではなく、それらのくびきを負うのでもなく、それらを完全に滅ぼさなければなりません。すなわち、私たちは罪を殺し、悪魔に対抗し、聖霊様の御力によって神様に従わなければなりません。そのとき、私たちは敗残のミデアンびとを追討し、ヨルダン川と共に滅ぼしつくすことになります。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者