タグは ‘羊飼い’

ヨハネによる福音書 10章27~28節

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。(ヨハネによる福音書 10章27~28節)

あなたがこの良い羊飼いを知っているときには、悪魔や死から守られてこう言うことができます、「私が神様の戒めを守らなかったのは確かです。しかし、私は愛する主イエス・キリストの羽の保護の下へと逃げ込みます。神様の御前において、主は愛する私の羊飼い、ビショップ、仲介者であられ、御自分の無垢によって私を覆って守り、また私に御自分の義を賜ってくださる、と私は信じます」。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネによる福音書 10章14節

わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。(ヨハネによる福音書 10章14節)
 
この羊飼いを知っているなら、
あなたは悪魔や死から守られてこう言うことができます、
 
「よくないことに、
私は神様の御命令を守らなかった。
でも、私は愛する主キリストの羽の下へと避難して、
この方が私の愛する羊飼いであり、
ビショップであり、
神様の御前で仲介者となり、
私をその無垢さで覆い守り、
私に義を賜ることを信じる。
なぜなら、
キリストは私が守れなかった律法を守ってくださり、
さらに私の行った罪という負債を
その血によってすっかり払ってくださったからだ。
キリストはその命を御自分の羊のためにささげられた。
ペトロもこう言っている、
「正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。」(ペトロの手紙一 3章18節)。
     
こうしてあなたは守られ、
悪魔もその地獄もあなたの平和をかき乱すことはできません。
もしもあなたが羊の群れと共にこの羊飼いを信じるなら、
忠実な羊飼いはあなたを置き去りにはせず、
あなたを助け守り支えてくださいます。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ヨハネによる福音書 10章14~15節

わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。(ヨハネによる福音書 10章14~15節)

ということは、私たちは自分の中にある何かや自分を通して生じる何かに基づいてクリスチャンになるのではないのです。それではどのようにして私たちはクリスチャンになるのでしょうか?キリストを知り、キリストを愛することによって、また、御自分の羊のためにその命をささげまた御自分の羊のことを知っているよい羊飼いとしてキリストを受け入れることによってのみ、私たちはクリスチャンになるのです。そして、キリストもそのような方であられたいと望まれていま。これを知ることが、ほかならぬ福音の御言葉によって生じる信仰なのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルカによる福音書 15章5節

そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、(ルカによる福音書 15章5節)

もしも羊飼いが常に助言を与え導いてくれなければ、
羊は自分の世話をすることも、
迷子にならないように気をつけることもできません。
さまよっている羊は羊飼いを見つけることもできません。
羊飼いが羊を探しに行かなければならないのです。
迷子になっていた羊を見つけると、
今度は、その羊が羊飼いのもとから脅され追い出されて
狼の餌食になったりしないように、
羊飼いはその羊を両肩に乗せて運びます。
実は、私たちもこの羊と同じような存在です。
私たちは自力で自分を助けることもできません。
キリストが御言葉によって
私たちを信徒の群れへと連れ戻してくださらなければ、
どうすれば良心に平穏が得られ、
悪魔や死や地獄の支配から解放されるか、わかりません。
たとえ私たちがキリストの御許に来て信仰に留まったとしても、
キリストが常に変わらない御言葉や力によって
私たちを強め運んでくださらなければ、
私たちは自分で自分を保つことなどできません。
なぜなら、悪魔が絶えずいたるところで私たちの隙をうかがっており、
「ほえたけるししのように、
誰を飲み込もうかとさがしながら歩き回っている」
(ペトロの手紙一 5章8節)からです。
ですから、ここでは私たちの自由意志とか力などというものを、
いかなる場合であれ誇るべきではありません。
私たちの羊飼いなるキリストが
おひとりですべてを成し遂げられることになっているからです。
「イエス様は、私たちのために死んで、私たちの罪を十字架でそのからだに担い、
悪魔や死や罪をその足元に踏みつけ、私たちを永遠の命へと連れて行かれる」、
というメッセージを、キリストが私たちに説教なさるときに、
このことは成就します。
キリストは私たちがこの世で生きていく間ずっと私たちを運んでおられるので、
私たちは自分がどれだけ義しくまた強いか、
などと自分の生活を省みなくてもよいのです。
私たちに必要なのは、キリストの両肩の上で休むことだけです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

イザヤ書 40章11節

主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。(イザヤ書 40章11節)

キリストを次のようなお方として描いて説教すべきです。キリストは、たとえどれほど弱かろうとも、誰ひとり、お見捨てにはなりません。御自分が常に義しく良い羊飼いであることを皆が理解するようになるために、一人一人を集め、慰め、強めてくださるのです。そのようなお方としてキリストを宣べ伝えれるならば、人々はキリストの御許へと、無理に強いなくても自分から進んで、また誰に急き立てられるでもなく、やって来るようになるでしょう。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者