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ヨハネの手紙一 2章2節

この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。(ヨハネの手紙一 2章2節)

この言葉を熱心に学び、
とりわけ「私たちの」という言葉を心に刻みなさい。
この「私たちの」という言葉は、
それを信仰によって自分にもあてはめてみるとき、
あなたの罪をも飲み込んで滅ぼしてしまうほどの威力をもっています。
キリストは数人の人々だけの罪を取り除いたのではなく、
あなたや全世界の罪をも取り除いてくださったのです。
  
このことを皆が信じているわけではありません。 
しかし、
キリストが御自分をささげられたのは、
全世界の罪のためだったのです。
 
ですから、
あなたの罪は一般的な意味での罪ではなく、
本当に「あなたの罪」であることを受け入れなさい。
キリストは他の人々の罪のためだけではなく、
あなたの罪のためにも御自分をささげられたことを信じなさい。
天使たちも喜ぶこのキリストのイメージを見失ってはいけません。
 
キリストは、
モーセのような要求する者や死刑執行人ではなく、
罪ののろいから解放してくださるお方、
恵みや義や命を賜るお方であり、
私たちの業績や聖さや義しさや正しい生活のゆえではなくて、
私たちの罪のゆえに、御自分をささげてくださったお方なのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ヘブライ人への手紙 12章2節

「イエスを見つめながら」(ヘブライ人への手紙 12章2節より)

キリストは、
恐れおののき打ちひしがれた心の持ち主にとっての
喜びとなる素晴らしいお方です。
キリストは私を愛して、御自分を私のために与えてくださいました。
キリストは、苦しみや罪や死の只中にある人々を愛されるお方です。
私の愛する友よ!
これ以上すばらしく、また喜ばしいことを
人は口にすることができるでしょうか?

キリストを信じる者は、
貧しさの中で豊かさを感じ、
恥辱の中で光栄を感じ、
嘆きの中で喜びを感じ、
死の中で命を感じ取ります。
その人は、
これらすべてを神様の御言葉に密着した信仰の中で保ち、
これらすべてを神様から待ち望みます。

「安心しなさい。私は世に勝っています」。
キリストが世に対する勝利者だというのはまったく正当です。
それなのになぜ私たちは、
キリストに対してすでに敗北している世に対して、
あたかもそれが勝利者であるかのように錯覚し、
恐れ震えているのでしょうか?

「私たちの義や聖のゆえではなく、私たちの罪のゆえに、
キリストは死に渡された」という言葉を
まったくの真理として受け入れるところに、
クリスチャンの特別な技能と知恵があります。

キリストは私たちを背負い、御父様のみもとに運んでくださいます。

もしもあなたが強く無敵でありたいのなら、
主キリストがあなたがたの力であることを認めなさい。

他人の、すなわち、全世界の罪、その負債をすべて払うために、
御自分の上に引き受けてくださったときに、
主キリストは非常に苦しまれました。
「他人の罪」が罪のない心の持ち主である主を苦しめたのですから、
自分の罪が自身の上に降りかかってきた場合には、
そうでなくても絶望しやすい私たち人間はいったいどうなってしまうと、
あなたは思いますか?

信仰とは、キリストを真剣に絶えず見つめることです。
それは、罪と死を取り除き、
私たちに義と永遠の命と救いをもたらしてくださった
キリストのみに集中することです。

呪いを避ける唯一の道は、信仰であり、
強い信頼によってこう言うことです、
「イエス様、あなたは私の罪、私の呪いです」。
あるいはむしろこう言うことです、
「私はあなたの罪、あなたの呪い、あなたの死、
あなたへと向けられている神様の怒り、あなたの地獄です。
しかし、あなたは、
私の義、私の祝福、私の命、私の神様の恵み、私の天国です」。

キリストは傷つけられた良心を癒してくださる唯一のお方、
天国からの賜物を分けてくださる唯一のお方、
真の信仰を守ってくださる唯一のお方、
日々のそして永遠の御言葉そのものです。

私の心を支配しているのは、次のひとつのことだけです。
すなわち、愛する主イエス・キリストへの信仰です。
それは、
あらゆる霊的なことがらや神様の御心にかなうような、
昼夜私に浮かぶ考えの唯一の中心であり、始めであり、終わりです。

(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)

コロサイの信徒への手紙 1章12~14節

光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。(コロサイの信徒への手紙 1章12~14節)

福音は私たちに、死から命への救いと、罪から義への救いを、また、地獄やあらゆる悪からの贖いを宣べ伝えています。福音は私たちを暗闇の国から神の国へと移してくれます。これらすべてはあまりに偉大なことなので、使徒は自分がそれを言葉で表現できるとは思っていません。これ以上的確にはその偉大さを表現できないほど素晴らしく語っているにもかかわらず、彼はそう言っているのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ガラテヤの信徒への手紙 5章1節

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(ガラテヤの信徒への手紙 5章1節)

見なさい!これが真にキリスト教的な「あがないと解放」です。すなわち、私たちは律法や律法による裁きや罪や死から、キリストのゆえに、贖われ自由にされたのです。それは、律法や死がもはや存在しなくなった、という意味ではなく、それらがまるで存在しないかのように無力になっている、ということです。律法が私たちを罪へと引きずっていくこともなければ、死が私たちを困惑させることもありません。信仰が私たちを義や永遠の命へと導いていくからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)


クリスチャンは「ごくまれな鳥」です。
「クリスチャンの自由」の意味を
本当にわかっている人はごくわずかです。
多くの人は、
それが肉的な(欲求を満たす)自由であると誤解しています。
しかし、
本来それは良心と魂の自由なのです。
あなたは心や善悪の判断力が清くも義しくもありません。
ですから、もし清く義しくなり救われたいのなら、
王なるイエス・キリストを通してのみ、
自分が清く義しくなり救われることを、
あなたは告白しなければなりません。
あなたのために十字架で流してくださったキリストの血を通して、
あなたはそうした者になれるのです。
そして、それこそがあなたを自由にします。

クリスチャンはすべてにおいて自由な主人であり、
誰の僕でもありません。
一方では、
クリスチャンにはすべてに仕える義務があり、
すべての僕です。
 
神様との関係では、
あなたはすべてにおいて信仰を通して自由です。
しかし、
人々との関係では、
あなたは愛のゆえにすべての僕です。

(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)

コリントの信徒への手紙一 5章7節

キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。(コリントの信徒への手紙一 5章7節より)

「私たちの過ぎ越しの羊であるキリストがほふられている」という聖パウロの御言葉はどういう意味でしょうか。それについて私たちは受難の歴史から聞いて知っています。ここでは二つのことに注目するべきです。まず第一に、私たちは、罪に対する神様の猛烈な怒りを思い起こさなければりません。この怒りを和解によって鎮めることができるのは、唯一の犠牲、神様の御子の死と血のみです。私たちは皆、自分自身の罪によってこの怒りの原因となっており、神様の御子が犠牲となられ、十字架でその血を流すほかないような事態を招きました。第二に、私たちは、私たちに対する神様の恵みと愛を見てそれを覚えなければなりません。それは、私たちが神様の怒りから解放されるためになぜ神様はその独り子を惜しまれずに十字架の死に渡されたのかについて、自分の罪のひどさを知った私たちがよく考えてみるためなのです。これより大きな愛のわざがありうるでしょうか。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネによる福音書 19章34節

しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。(ヨハネによる福音書 19章34節)

主イエス・キリストのわきから流れている血こそは、私たちをあがないだすために必要な、私たちの罪を完全に帳消しにする「値段」です。故なく受けた苦しみと死によって、また十字架で流された聖なる尊い血によって、愛する主イエス・キリストは、私たちのすべての罪の負債を支払ってくださり、自分自身の罪のゆえに永遠の死と滅びに支配されていた私たちをあがないだしてくださいました。このキリストの血は神様のみもとで、私たちを守るために休みなくこう叫び続けています、「憐れんでください!憐れんでください!赦してください!赦してください!お父様!お父様!」。このようにしてキリストの血は、私たちのために、神様のあわれみと罪の赦し、また義と救いをそなえてくださったのです。父なる神様は今、神様と私たちの仲介をしてくださるこの愛する御子の叫びと私たちのためのとりなしの祈りとを聴いてくださり、弱々しい罪人である私たちをあわれんでくださいます。私たちはすみずみまで罪にまみれているにもかかわらず、神様は私たちの中にひとつの罪も見出しません。神様は、愛する御子イエス・キリストの比類なき尊い血だけを見ておられるからです。そして、この血によって私たちは清くすすがれているのです。この血こそが、黄金の恵みの衣装です。この血によって、私たちはおおわれています。この血に包まれて、私たちは神様の御前に進み出ます。それゆえ、神様は私たちを、あたかも義と聖と無垢に満ちた愛する御子であるかのようにみなしてくださるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネによる福音書 19章28~30節

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネによる福音書 19章28~30節)

それは成し遂げられました。神様の小羊はこの世の罪のためにほふられ、犠牲として捧げられました。真の大祭司は「犠牲を捧げる」という御自分の仕事をやり遂げられました。神様の御子は御自分のからだと霊を差し出して罪の代価としてそれを捧げたのです。罪は滅ぼされ、神様の怒りは鎮められました。死は敗北し、天国が確保され、天が開かれたのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルカによる福音書 1章35節

だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。(ルカによる福音書 1章35節より)

「神様とマリアの子である主イエス・キリストは、その罪なく流された血の力によって私たちを罪や死や神様の永遠の怒りから贖うために、私たち哀れな罪人のために苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られました。この方は三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、父なる全能の神様の右の座におられます」。このことを私は信じます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

マタイによる福音書 11章5節

目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。(マタイによる福音書 11章5節)

「福音」とは、キリストについて宣べ伝えることです。この福音は罪人にこう言います、「私の子よ、安心して喜びなさい。恐れてはいけません。キリストは、貧しい惨めな悲しみの心の持ち主たちにところに、恵みを伝えて与えるために来られたのですから。この方はあなたのために、神様にふさわしい永遠の清さを捨てて、あなたの罪を洗い落とし、あなたを神様と仲直りさせ、御自分を犠牲にしてあなたに罪の赦しと永遠の命を確保し、贈り届けてくださったのです」。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者