タグは ‘高慢’

ペトロの手紙一 5章5節

なぜなら、
「神は、高慢な者を敵とし、
謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。
(ペトロの手紙一 5章5節後半)

神様は、弱さを忍ばれますが、軽蔑という悪については忍耐なさいません。ただおひとり力に満ちた御方である神様に、私たちが自分たちの弱さを告白するのは、神様の栄光となります。しかし、私たちが神様を軽んじて、御言葉や尊い福音を無視するような悪を、神様は我慢なさいません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

コリントの信徒への手紙二 12章7~8節

また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。(コリントの信徒への手紙二 12章7~8節)

このように主はその聖徒たちに対して取り計らわれます。もしも主がこのようになさらなければ、聖徒たちもまた高慢へと落ち込み、自分を神であるかのようにみなすようになったりします。あるいはまた、私たちは彼らを自分の偶像に仕立て上げ、神様の恵みよりも彼らの優秀さや人格の方により細かい注意を向けるようになってしまいます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ローマの信徒への手紙 15章1節

わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。(ローマの信徒への手紙 15章1節)

私たちは他人の欠点をいやいやながら耐えています。
そればかりか、
隣人に完全であることを要求しさえします。
それで、
他の人々からすっかり距離を置くことで平和と休息を得、
あらゆるいやなことから自由になろうとする人もでてきます。
これを実行できる力をもっている人の多くは、
隣人を退け、そうすることを自慢し、
「義のゆえに私はそうするのだ」、
などと言い放ちさえします。
その人は、
「悪人たちとではなく、
自分と同じような義なるよい人たちとだけ付き合いたい」、
と思っているのです。
このように振舞うのは、
自分を他の人々よりも優れているとみなしている者たち、
自分は正直な生活を送っており
(他の人々)より多くの恵みを受けていると思いこんでいる者たちです。
彼らは、
自分たちと異なるすべての人々を軽蔑し裁く一方で、
自分たちのことは宝石のようにみなすのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ヨハネによる福音書 16章13節

しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。 (ヨハネによる福音書 16章13節)

キリストはここで聖霊様を説教者として紹介なさいます。
それは、
聖霊様を御言葉や説教職と分離して考える
惑わす霊に取り付かれた者たちのように、
聖霊は天国だけにいる、
などと思い違いをしないためであり、
また、聖霊様は私たちのもとにいることを望まれ、
御言葉を通して私たちを真理全体に導かれることを、
皆が知るようになるためです。
それで、私も自分を「未熟な博士」と呼びたいと思います。
それは、
雲まで舞い上がり聖霊様の羽の下にふんぞり返っている
高慢な霊たちのように、
自分のことをあまりに誇りすぎないためです。
実際に体験したことですが、
悪魔の誘いに乗って御言葉の外へと迷い出て、
雲の上のことばかり思い描いていると、
いつの間にか私は、
神様がどこにいて、自分がどこにいるのか、
さっぱりわからなくなってしまったものです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者