ヨハネによる福音書 8章51節

はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。(ヨハネによる福音書 8章51節)

御言葉は私たちに「罪や死や悪魔に勝たれたキリスト」を提示します。御言葉を受け入れそれを守る者は、キリストを受け入れるのであり、御言葉を通して永遠の死から解放されます。私たちは「御言葉を守るように」といたずらに命じられているわけではありません。罪が傷つけ、死が攻撃し、地獄が圧迫するとき、私たちは本当の戦争に巻き込ます。そのような時こそ、私たちは御言葉のもとへとしっかり避難し、御言葉から決して離れないことが肝心なのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)


私たちは死ななければならないし、死を苦しまなければなりません。
しかし、
神様の御言葉の中に留まる者は、死を知る必要がありません。
その人は、夢を見ているかのように、この世から離れていきます。
「私は死ぬ」ではなく、
「私は眠りに就かなければならない」
という言葉こそが似つかわしいように。

敵は私たちを死によっておびやかします。
しかし、
もしも敵にまともな理解力があるのならば、
敵は私たちを命によって脅すことでしょう。
なぜなら、
キリストが復活なさったため、
死は罪と死自身との終わりにすぎないものになっていることを、
私たちは知っており、それを誇りとし。喜んでいるからです。

神様の御前でキリストの御名と御言葉のゆえに死ぬのは、
尊くすばらしいことです。
なぜなら、
私たちはいつかは死ぬ身であり、
結局は罪のゆえに死ななければならないからです。
しかし、
もしも私たちがキリストの御言葉のゆえに死に、
御言葉を自由に告白するならば、
その時、
私たちはあらゆるうちでもっとも光栄な死をむかえることになります。

死に打ち勝つだけではなくて、決して死ななくなる、
という効き目がある薬を調合できる薬屋は、
すばらしい薬屋と言えるでしょう。
人は皆、死なねばなりません。
しかし、
心に神様の御言葉を保ち信じている人は死を見ることがない、
というのは大いなる奇跡です。
神様の御言葉は、
それを信仰により心に堅く納めておくならば、
死を永遠の命に変えるほど強力な薬なのです。

「私の御言葉を保つものは決して死ぬことがない」、
と主が言われているように、死は命のはじまりです。
目の前に命だけがあるとき、死を見ることがどうしてありえましょうか。
その時、夜は昼間のように澄みわたり、明るく輝いています。
始まろうとしている命の光と輝きは、
その時に存在しなくなる死よりもはるかに澄みわたり、
輝きに満ちているからです。

私たちのこの世での命は、「死ぬこと」にほかなりません。
もっとも私たちは、そのことをふだん考えもしないで生きています。
正しい視点からすれば、
私たちの命と死とは互いに遠く隔たっているわけではありません。
ベッドにもぐりこむ時、そこから再び起き上がれるか、私は知りません。
テーブルに座る時、そこから再び立ち上がれるか、私は知りません。
要するに私たちは、起きている時も寝ている時も、
死ぬ時と同様に、生きることに関しては不確かです。
ただ、習慣化していることは、
なじみが薄いもうひとつのこと(死と命)にくらべて、
それほど不思議には見えないだけです。

キリストを通して死は打ち勝たれ、全世界は無に等しくされました。
その結果今残っているのは「絵に描かれた死」だけですが、
それは矛先をへし折られているため、
キリスト信仰者を傷つけることはできません。

(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者