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ヘブライ人への手紙 9章15節

こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。(ヘブライ人への手紙 9章15節)

私は、たとえ天国が開かれているのを見たときに、「自分で藁を持ち上げるだけで天国に入れるよ」、と言われたとしても、私はそうしないでしょう。「私は自分の行いによって天国に入れるのだ」、などとおごり高ぶらないようにするためです。そのようであってはなりません!栄光は、私のものではなく、独り子を私のために与え、私の罪を拭い去り、私を救ってくださった神様のものだからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

コリントの信徒への手紙一 15章1~2節

兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。(コリントの信徒への手紙一 15章1~2節)

キリストを信じなさい。そうすれば、あなたは正しい道にいます。キリストにとどまりなさい。そうすれば、あなたは正しい方へと歩みます。終わりまでたゆまずにそれを続けなさい。そうすればあなたは救われます。「私たちが生き続ける限り、キリストの復活と王国にはこの地上に独自の道をもっている」ことを、パウロは私たちに教えようとしています。その道は、御言葉と見えないキリストに頼りきる信仰とによって見出され、罪や死に打ち勝ち、それらに代わって義や命をキリストを通して得るのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ローマの信徒への手紙 11章6節

もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。(ローマの信徒への手紙 11章6節)

私たちの救いは、律法と福音の両方に基づくことはできません。私たちは、信仰を通して義とされ、その結果律法の義を失うか、あるいは、律法を通して義とされ、恵みと信仰の義を失うか、そのどちらかです。恵みを失い律法に頼ることは、恥ずべき不幸な喪失です。しかし、律法を失い恵みに頼ることは、それとは逆に、救いの幸せに満ちた喪失です。
(マルチン・ルター、宝石箱)

使徒言行録 13章26節

兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。(使徒言行録 13章26節)

パウロがここでキリストについて宣べ伝えている、御言葉に含まれている解放と救いは、自分たちが神様の子供でありつづけ、キリストの御国が自分たちの中にあることを知るために、私たちが知っておかなければならない最高の教えです。それは救いと平和の御言葉であり、確実に救いと平和をもたらします。なぜなら、それは神様が与えてくださるものだからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

使徒言行録 7章59節

人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。
(使徒言行録 7章59節)

「私は祈ります、主イエス様、私の霊をお受け取りください!」
ステパノは、自分の霊がキリストにあって救われるなら、肉体もまた霊とともに救われるのだから、自分の肉体のことを心配する必要はない、と確信していました。ここには、死んだ後も命が続くことへのステパノの信仰がすばらしい形で表現されています。ステパノが殉教したのは、ステパノ自身のためではなく、私たちを慰めるためのものです。それは、ステパノの残した軌跡の上を私たちが歩むときに、イエス様が私たちの場合にも同じように働いてくださることを私たちが疑わないためなのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

使徒言行録 4章11~12節

この方(イエス様)こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録 4章11~12節)

私たちはキリストとこの方の御国を正しく宣教しなければなりません。この方は私たちがお祈りするべき主です。この方を信じることによって、私たちは救われます。十字架につけられたナザレ人イエス様の御名には、人を救う力があります。

マルコによる福音書 16章16節

信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。(マルコによる福音書 16章16節)

悔い改めたときに、私たちは単純に、洗礼において私たちに与えられた約束に戻り、洗礼の力に戻り、堕落した私たちが見失ってしまっていた信仰に戻ります。悔い改める者は、なによりもまず、洗礼について考え、神様の約束を思い起こして、洗礼を受けていることを神様に感謝するべきです。
(マルチン・ルター、宝石箱)


洗礼の力、影響、利益、実、目的は、「洗礼は救う」という点にあります。洗礼が授けられる目的は、洗礼を受けた者が王侯になるためではなく、御言葉が言っている通りに、救われるためです。「救われる」ということはまた、私たちがよく知っているように、罪や死や悪魔の支配からの解放、キリストの王国への入場、キリストが共にいてくださる永遠の命に他なりません。このことからまた、どれほど洗礼を尊いものとみなすべきであるか、あなたは気づくことでしょう。洗礼において私たちは言葉では表すことのできないほど大きな宝物をいただくのです。(中略)洗礼は御言葉から力を得て、新生の洗いとなっているのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

マタイによる福音書 11章5節

目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。(マタイによる福音書 11章5節)

「福音」とは、キリストについて宣べ伝えることです。この福音は罪人にこう言います、「私の子よ、安心して喜びなさい。恐れてはいけません。キリストは、貧しい惨めな悲しみの心の持ち主たちにところに、恵みを伝えて与えるために来られたのですから。この方はあなたのために、神様にふさわしい永遠の清さを捨てて、あなたの罪を洗い落とし、あなたを神様と仲直りさせ、御自分を犠牲にしてあなたに罪の赦しと永遠の命を確保し、贈り届けてくださったのです」。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨエル書 3章5節

しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。(ヨエル書 3章5節より)

まずなによりもこの「皆ひとりひとり」という無制限の言葉に注目しましょう!それは誰をも救いの外へ閉め出したりはしません。この救いを神様は、御自分に助けを求めて叫ぶ者に御自分の自由意志によりただで与えることを約束しています。私たちはこのことを知らなければなりません。人間の心なるものは、神様の御言葉に信頼しない間は、「神様は誰を憐れんでくださるか」という問題について危険な考えを思いつくものだからです。この「ヨエル書」にある約束は神様の憐れみを例外なくすべての人に提供しています。また、神様の御言葉に仕える者には皆ひとりひとりに罪の赦しを宣言するように、命令を受けています。
(マルチン・ルター、宝石箱)


この御言葉に、私たちの救いのすべてはかかっています。
そのように素直に理解するべきです。
「救われる」と預言者ヨエルは言います。
それは、人が罪や死や地獄からあがないだされることです。
人はこうして、
この世での惨めな人生を通って、永遠の命へと入って行きます。
それはひとえに聖霊様のおかげです。
預言者ヨエルによれば、
聖霊様はあらゆる肉の上に注ぎだされており、
人が主の御名を呼ぶようにと働きかけてくださいます。
これはパウロも等しく強調したことです。
すなわち、
人は、律法の行いなしに、信仰を通してのみ義とされるのです。
なぜなら、
「主の名を呼び求めること」は「信じること」と同じだからです
(ローマの信徒への手紙 10章)。
まず第一に、
福音を宣教する人々を派遣しなければなりません。
この派遣によって福音が他の人々に聞かれるようになります。
福音を聴くことによって、信仰が与えられます。
信仰は、救いを求めて主の御名を呼ぶ心を起こします。
そして、この呼び声は救いをもたらします。
キリストの王国は、
神様の御言葉に基づく信仰の王国であり、
そこで、私たちは、
自分の力によってではなく、
私たちがまだ敵であったときから
私たちを愛してくださっている
神様の「自由な恵み」によって、
救われるのです。
また、神様は、
私たちの心に聖霊様を送って、
私たちが救いを求めて御名を呼ぶように
働きかけてくださいます。
まさにそれゆえに、
私たちは救われるようになるのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)


私たちはこの世での人生の間、
主を面と向かって見ることができません。
それゆえに、
主の「御名」と預言者は言っているのです。
私たちはこの世では「信仰の王国」の中で活きています。
神様の御名とは神様の御言葉のことです。
それを私たちは聴くのであり、
そこに私たちの富があります。
死ぬ時までは、
これを超えるものを何も私たちはもっていません。
しかし、死んだ後で、
私たちは主を面と向かって見ることになります。
「皆」という言葉に特に注目しましょう。
神様は、御自分を呼び求める者に対して、
自由な御意志により無償で約束してくださった救いから、
誰一人除外なさらないのです。
このことを知っておくのは、
御言葉の根拠なしに、
御言葉に反して吹聴されている
「恵みに関する選び」という、
あの危険な考え[1]を斥けるためにも大切です。
神様は私たちに御言葉を送ってくださるので、
誰あろう私たちこそが
恵みによって選ばれているのです。
私たちは、
神様がはっきりくださっている約束に信頼し、
救いを求めて神様の御名を呼び、
自分は救われる、と確信をもつべきです。
「わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けて
あなたの御名の栄光を輝かせてください。
御名のために、わたしたちを救い出し
わたしたちの罪をお赦しください。」(詩編 79編9節)。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

[1] 人間的な基準によって、ある人は神様の恵みにあずかっているが、ある人はあずかっていない、と判別する考え方をさしているものと思われます(訳者注)。

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者