旧約聖書
詩編 55編23節、ペトロの手紙一 5章7節
あなたの重荷を主にゆだねよ
主はあなたを支えてくださる。
主は従う者を支え
とこしえに動揺しないように計らってくださる。(詩編 55編23節)
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。(ペトロの手紙一 5章7節)
私たちが「主に投げゆだねる」という方法をよく学ぶなら、主が私たちの世話をしてくださることを確かに経験することができるでしょうに。
しかし、この方法を学ばない人は、捨てられ、隅々まで痛めつけられ、だめになり、倒れてしまいます。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
マラキ書 3章20節
わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。(マラキ書 3章20節より)
御言葉と洗礼と聖餐は、私たちの「明けの明星」です。それらを私たちは「恵みの太陽」の特別なしるしであるかのように見つめます。なぜなら、私たちは確信をもって次のように言えるからです、「御言葉とサクラメント(洗礼と聖餐)があるところには常にキリストがおられ、また罪の赦しと永遠の命があります。逆に、これらの恵みのしるしがないかあるいは拒絶されるところでは、恵みはまったくなく、ただひどい迷妄があるだけです」。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ゼカリヤ書 9章9節
娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。(ゼカリヤ書 9章9節)
この王様の御国に属し、堅い信仰をもって王様から離れずにいる者のことを、罪も死も、地獄も悪魔も、人間もどんな被造物も傷つけることはできません。そのような人は、救いの喜びに満ちた罪のない者として、その王様と同じように永遠に生きるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ゼカリヤ書 4章6節
武力によらず、権力によらず/ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。(ゼカリヤ書 4章6節より)
主は大人物を通して行いたくないことを、御自分の取るに足らない聖徒を通じて実現なさいます。エルサレム詣での折、まだ子供だった主イエス様は両親から離れてお隠れになり、母親が心配して御自分を捜すようにと取り計らわれました。復活されたときに主は、母親にでも使徒たちにでもなく、まず初めにマグダラのマリアにあらわれました。主は母親に対してよりも、サマリアの女や姦淫の罪を見つけられた女に対して、より優しく話しかけました。ペトロが罪に陥り「主を知らない」と否定した一方で、十字架につけられた強盗は揺るぎない信仰を得ました。これらやこれらに似た驚くような例を通じて、神様は、御霊の多様な働きかけを私たち人間が台無しにすることを許されないことを、教えておられます。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ハガイ書 1章2節
万軍の主はこう言われる。この民は、「まだ、主の神殿を再建する時は来ていない」と言っている。(ハガイ書 1章2節)
もしも人が神様の御言葉の説教に関心を払わずに、各々ただ自分の経済状態のことだけを考える場合には、私たちが預言者の言葉から聞いたように、神様はこう言われます、「私の家が朽ち果てているというのに、あなたたちは贅沢な家に住む余裕があるのですか。万軍の主は今こう言われます、『あなたたちがどうなったか見てみなさい。たくさん蒔いても収穫は僅かです。いくら食べても空腹のままです。どれほど飲んでも喉の渇きは収まりません。何枚服を身に着けていても暖まりません。働き人の給料はまるで財布に穴が開いているかのように減って行きます』」(「ハガイ書」1章4~6節)。しかもこれは(神様への)このような侮蔑に対する最も軽い懲らしめなのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ヨエル書 3章5節
しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。(ヨエル書 3章5節より)
まずなによりもこの「皆ひとりひとり」という無制限の言葉に注目しましょう!それは誰をも救いの外へ閉め出したりはしません。この救いを神様は、御自分に助けを求めて叫ぶ者に御自分の自由意志によりただで与えることを約束しています。私たちはこのことを知らなければなりません。人間の心なるものは、神様の御言葉に信頼しない間は、「神様は誰を憐れんでくださるか」という問題について危険な考えを思いつくものだからです。この「ヨエル書」にある約束は神様の憐れみを例外なくすべての人に提供しています。また、神様の御言葉に仕える者には皆ひとりひとりに罪の赦しを宣言するように、命令を受けています。
(マルチン・ルター、宝石箱)
この御言葉に、私たちの救いのすべてはかかっています。
そのように素直に理解するべきです。
「救われる」と預言者ヨエルは言います。
それは、人が罪や死や地獄からあがないだされることです。
人はこうして、
この世での惨めな人生を通って、永遠の命へと入って行きます。
それはひとえに聖霊様のおかげです。
預言者ヨエルによれば、
聖霊様はあらゆる肉の上に注ぎだされており、
人が主の御名を呼ぶようにと働きかけてくださいます。
これはパウロも等しく強調したことです。
すなわち、
人は、律法の行いなしに、信仰を通してのみ義とされるのです。
なぜなら、
「主の名を呼び求めること」は「信じること」と同じだからです
(ローマの信徒への手紙 10章)。
まず第一に、
福音を宣教する人々を派遣しなければなりません。
この派遣によって福音が他の人々に聞かれるようになります。
福音を聴くことによって、信仰が与えられます。
信仰は、救いを求めて主の御名を呼ぶ心を起こします。
そして、この呼び声は救いをもたらします。
キリストの王国は、
神様の御言葉に基づく信仰の王国であり、
そこで、私たちは、
自分の力によってではなく、
私たちがまだ敵であったときから
私たちを愛してくださっている
神様の「自由な恵み」によって、
救われるのです。
また、神様は、
私たちの心に聖霊様を送って、
私たちが救いを求めて御名を呼ぶように
働きかけてくださいます。
まさにそれゆえに、
私たちは救われるようになるのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
私たちはこの世での人生の間、
主を面と向かって見ることができません。
それゆえに、
主の「御名」と預言者は言っているのです。
私たちはこの世では「信仰の王国」の中で活きています。
神様の御名とは神様の御言葉のことです。
それを私たちは聴くのであり、
そこに私たちの富があります。
死ぬ時までは、
これを超えるものを何も私たちはもっていません。
しかし、死んだ後で、
私たちは主を面と向かって見ることになります。
「皆」という言葉に特に注目しましょう。
神様は、御自分を呼び求める者に対して、
自由な御意志により無償で約束してくださった救いから、
誰一人除外なさらないのです。
このことを知っておくのは、
御言葉の根拠なしに、
御言葉に反して吹聴されている
「恵みに関する選び」という、
あの危険な考え[1]を斥けるためにも大切です。
神様は私たちに御言葉を送ってくださるので、
誰あろう私たちこそが
恵みによって選ばれているのです。
私たちは、
神様がはっきりくださっている約束に信頼し、
救いを求めて神様の御名を呼び、
自分は救われる、と確信をもつべきです。
「わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けて
あなたの御名の栄光を輝かせてください。
御名のために、わたしたちを救い出し
わたしたちの罪をお赦しください。」(詩編 79編9節)。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
[1] 人間的な基準によって、ある人は神様の恵みにあずかっているが、ある人はあずかっていない、と判別する考え方をさしているものと思われます(訳者注)。
ホセア書 13章14節
陰府の支配からわたしは彼らを贖うだろうか。死から彼らを解き放つだろうか。死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。(ホセア書 13章14節より)
もしも悪魔が、
処女マリアの子「女のすえ」であるキリストは永遠なる全能の神様であること
を知っていたとしたら、
キリストに手出しはしなかったことでしょう。
(中略)神様は悪魔をひそかに捕縛するために「釣り」をします。
魚は釣り針に気がつかずに餌の虫に食いつきます。
そして釣られてしまいます。
父なる神様のなさることも同様です。
御自分のひとり子を、
アダムやアブラハムやダヴィデの血や肉を共有するものとして、
至上の天から地上へと遣わされたのです。
地上で悪魔はキリストを貧しく惨めな「虫」(詩編22編7節)と見なします。
つまり、キリストを、
飢えや渇きや寒さや暑さに苦しみ、
この世の労苦と悲惨に囲まれて泣いている、
他とまったく同じ普通の人間として見るのです。
しかし、悪魔は
何か特別なものがこのキリストに隠されていることを知りません。
それは、
キリストが永遠なる全能の神様であり、
御父と似た方でありながら別のペルソナ[1]である、
ということです。
これは悪魔の考えの及びもしないことでした。
キリストが奇跡を行ったことには悪魔は驚きませんでした。
なぜなら、
預言者たちもそうしたことはできたし、
悪魔は彼らのことも飲み込んでしまったからです。
同じようにキリストを飲み込むのもわけない、と悪魔は考え、
口をあけてキリストに噛みつき、飲み込もうとしたのです。
ところが、
キリストは悪魔の喉下にからみつき、
悪魔はキリストを飲み込もうとしたせいで
逆にキリストの奴隷となり、自滅していきます。
なぜなら、
キリストは真の神様であり、
死んだままではおらず、
死から自由になってよみがえり、
活きつづけ、
悪魔を捕縛してくださるからです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
[1] 「ペルソナ」(位格)とは、唯一なる神様の三つの面を表す言葉で、父、子、聖霊のこと。父なる神様、子なるイエス・キリスト、神の霊なる聖霊様を指す。そのため、「三位一体」なる神様という表現が用いられる。
ダニエル書 12章13節
終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。(ダニエル書 12章13節)
クリスチャンの死は夢です。それを通してクリスチャンは命へと入ります。しかし、神様をないがしろにする者は命を捨てて永遠の死を得ます。あなたがたは次のように確信してよいのです、「キリストを信じて先にこの世を去ったあなたがたの友たちは死んだのではなく、甘く心地よい夢を見つつ眠っています。そして最後の日に、栄光に満ち太陽よりも眩しく光を放っている体をまとって復活するのです」。
(マルチン・ルター、宝石箱)
エゼキエル書 34章16節
わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。(エゼキエル書 34章16節)
ここからわかるように、キリストの王国は、疲れ果てた者、病気の者、傷ついた者の只中でキリストが働かれ、彼らの世話をし、彼らを助けてくださっている場所です。これは慰めに満ちたメッセージです。それなのに、私たちは自分の危機と悲惨とに気がつきません。主が私にこのように憐れみ深くあられるのを見るとき、主は私の心をすっかりとらえ、私は主の御許へと馳せます。そして、そこから心にさらなる深い喜びが生じるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
エレミヤ書 17章16節
わたしは、災いが速やかに来るよう/あなたに求めたことはありません。痛手の日を望んだこともありません。あなたはよくご存じです。わたしの唇から出たことは/あなたの御前にあります。(エレミヤ書 17章16節)
説教職を務めることは、あまりに重荷であるため、もしも私たちが神様の栄光のみと隣人たちの利益のみを求めるのでなければ、とても遂行できるものではありません。説教の職務を果たすと、その教師はその報酬として嘲りと苦しみとを受け、栄光や利益は、他の者たちが取ってしまいます。そういうわけですから、倦むことなく愛することに努め、快楽を求めてはなりません。これを実現させるのは、ひとり神様の御霊だけであって、人間などの力では到底できません。
(マルチン・ルター、宝石箱)
エレミヤ書 15章16節
あなたの御言葉が見いだされたときわたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなりわたしの心は喜び躍りました(エレミヤ書 15章16節より)
私は他の人がどれほど霊的に強いのか知りません。「自分は聖くなった」と言い張る人たちもいます。でも私は、たとえどれほど学識があり霊的であったとしても、聖なる人間にはなれません。もしも御言葉について考えたり研究したりしないなら、今だって私は、キリストが私のそばにおられることを体験しないし、少しの熱意も湧かないし、御霊の働きも感じません。それでも、詩編や他の聖書の箇所に深く考えを巡らすと、たちまちのうちに私の心は温かくなり、新しい思いや勇気を得るのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
エレミヤ書 13章23節
クシュ人は皮膚を/豹はまだらの皮を変ええようか。それなら、悪に馴らされたお前たちも/正しい者となりえよう。(エレミヤ書 13章23節)
これが原罪、生まれながら人間に染み付いている本当の罪の核心です。もしも原罪がなければ、本当の罪などは存在しないところです。ほかのすべての罪とは違い、これは行いによる罪ではありません。これは活動を続け、ほかのすべての罪を引き起こします。これは罪の中の罪です。この罪は時折行われるものではありません。人間がいるあらゆる場所、またあらゆる時間に、この罪もまた存在しています。(中略)人が自分の力で自分自身を自然に生むことができないのと同じように、人はこの原罪なしで生活したり、原罪から自分を解放することもできません。私たちの造り主なる神様にのみそれが可能です。それゆえ、神様は私たちにまず律法を与え、それによって私たちがこの原罪を知り、恵みを渇望するようになさったのです。そして次に福音を与えて、それをとおして私たちに助けを提供してくださるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
イザヤ書 60章1節
起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。(イザヤ書 60章1節)
この御言葉の箇所は、まるで光輪や栄光や誇りや知恵について語っているかのようです。福音は、神様の栄光でもあり私たちの光でもあります。福音は私たちの光です。私たちは福音を通して、神様や自分やすべてについて知るようになるからです。福音は神様の栄光です。福音を通して、「神様はどんなお方であるか」について世界中で宣教と告知がなされ、神様とそのみわざとが畏敬され、感謝されるからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
イザヤ書 57章15節
高く、あがめられて、永遠にいまし
その名を聖と唱えられる方がこう言われる。
わたしは、高く、聖なる所に住み
打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり
へりくだる霊の人に命を得させ
打ち砕かれた心の人に命を得させる。(イザヤ書 57章15節)
この地上で神様がお住みになる
「素敵な家、城、広間、楽園、天」とみなされる人は、
いかに大きな栄光と恵みを受けていることでしょう。
彼ら自身は、貧しく苦しむ臆病な良心の持ち主にすぎません。
彼らは心の中で、
罪、死、恐れ、神様の怒りへの恐怖しか感じていません。
彼らは、神様が遠くにいて悪魔がそばにいる、と思っています。
しかし、今日の聖書の箇所での約束を受けて入れた人は、
自分が神様が憩われる本当の住まい、神殿であることを知って、
喜びをもって自分を慰めることができます。
この人たちについて神様は、
傲慢な聖人たちに対抗してこう言われます、
「主はこう言われます、
「天はわたしの王座、地はわが足台。
あなたたちはどこにわたしのために神殿を建てうるか。
何がわたしの安息の場となりうるか」。
主は言われます、
「これらはすべて、わたしの手が造り
これらはすべて、それゆえに存在すると
主は言われる。わたしが顧みるのは
苦しむ人、霊の砕かれた人
わたしの言葉におののく人」」
(イザヤ書 66章1~2節)。
この地上で神様は、
このような人以外のところに住まわれたりはしません。
自己満足に浸っている聖人たちは、
神様にとっては、あまりも尊大で賢すぎるのです。
しかも彼らは、
神様がこの地上で彼らの中にお住まいになることを
願ったりもしません。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
クリスチャンであることがどれほど尊い価値を持っているか、御覧なさい。
この地上でクリスチャンは、奇跡的な存在です。
神様の御前でクリスチャンは、天地よりも大切な存在です。
クリスチャンは、全世界の光であり救いを伝える存在です。
クリスチャンを通して、神様はすべてに働きかけておられます。
しかし、一方でクリスチャンは、
世に対しては完全に隠された、知られざる存在です。
世はクリスチャンを知るのにふさわしくはなく、
クリスチャンを評価もしません。
今日の御言葉は、
クリスチャンに与えられている言い表しようもないほど素晴らしい栄光
について語っています。
クリスチャンを通してのみ、
すなわち、クリスチャンの中で、
クリスチャンの言葉や行いや口や手を通してのみ、
神様は御自分を現すことを望まれます。
このように神様は、
クリスチャンとそうではない人との間に大きな差を設けられました。
クリスチャンは、
この世から見てどんなに価値がない存在であったとしても、
神様の御前では、
どんな王様や貴族や全世界よりも価値のある存在なのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
イザヤ書 53章12節
(その方は)多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。(イザヤ書 53章12節より)
私たちはキリストが苦しまれた十字架を
他ならぬ「聖壇」とみなさなければなりません。
この聖壇でキリストは、
御自分のからだと霊とを私たちの罪のために捧げて、
苦しみの只中で祈られました。
それは、
キリストが御自分の牧師としての職務を証して、
私たちを恵みへと導き、罪から引き離し、
永遠の死から解放するためでした。
罪を取り除く方は、死をも取り除かれるのです。
パウロが教えているように、
死は罪の報酬です(「ローマの信徒への手紙」6章23節)。
罪がないところには、死も力を振るうことがありません。
死のないところには、悪魔や地獄もありません。
かわりにそこにあるのは、永遠の義と命と救いです。
キリストが十字架で、
御自分の犠牲と祈りによって、罪を取り去ってくださったいま、
死や悪魔や地獄は、私たちに対してもはや何の権威ももっていません。
(中略)
これは私たちの喜びであり慰めです。
私たちはそれについて心からキリストに感謝し、心を込めて宣教するべきです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
イザヤ書 53章11節
義なる私の僕はその知識によって多くの人を義とし、また彼らの不義をその身に引き受けます。(イザヤ書 53章11節より)
ここでは再び「キリストを知ることによってのみ、人は義とされる」理由が述べられています。預言者イザヤが言っているように、キリストは、私たちの不義をひとりで自らの上に引き受けてくださった神様の僕です。それゆえ、私たちはこのキリスト教の「義」の定義にゆるがずに留まらなければなりません。それは、私たちが絶望して、キリストが恐るべき裁判官や処刑執行官であるかのような間違った思い込みに陥ったりしないためです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
イザヤ書 43章24~26節
あなたは香水萱をわたしのために買おうと/銀を量ることもせず/いけにえの脂肪をもって/わたしを飽き足らせようともしなかった。むしろ、あなたの罪のためにわたしを苦しめ/あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた。わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする。わたしに思い出させるならば/共に裁きに臨まなければならない。申し立てて、自分の正しさを立証してみよ。(イザヤ書 43章24~26節)
福音の御言葉を「自分のもの」としなさい、そう、「あなた自身のもの」としなさい!福音にしがみ付いて、福音が約束していることを少しも疑わずに信じなさい。「あなたが聖徒と等しい者である」ということは、尊大な態度ではなく、必要不可欠な謙遜と絶望なのです。そしてこの絶望は、神様の恵みに対してではなく、自分自身に対しての絶望なのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
イザヤ書 42章1節
見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。(イザヤ書 42章1節)
キリストは神様の御心に適うお方です。私たちがキリストを愛するとき、私たちもまた神様のご好意をいただけます。私たちはその中で十分に守られているのだ、と思います。詩編91編10節)に言われているように、そこには悪が入り込む余地のない自由の都があります。神様の御心に適うためには信仰が不可欠です。どんな律法も助けにはならず、どんな行いや業績も十分ではありません。
(マルチン・ルター、宝石箱)
イザヤ書 40章11節
主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。(イザヤ書 40章11節)
キリストを次のようなお方として描いて説教すべきです。キリストは、たとえどれほど弱かろうとも、誰ひとり、お見捨てにはなりません。御自分が常に義しく良い羊飼いであることを皆が理解するようになるために、一人一人を集め、慰め、強めてくださるのです。そのようなお方としてキリストを宣べ伝えれるならば、人々はキリストの御許へと、無理に強いなくても自分から進んで、また誰に急き立てられるでもなく、やって来るようになるでしょう。
(マルチン・ルター、宝石箱)
イザヤ書 35章4節
見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。(イザヤ書 35章4節より)
神様の恵みを誰も疑ってはなりません。全世界とすべての罪に対抗してでも神様の助けに信頼するべきです。しかし、自分自身はまったくだめだとみなすべきです。「ほんの小さなよいことぐらいなら行える」などと思ってはなりません。
(マルチン・ルター、宝石箱)