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ローマの信徒への手紙 15章1節

わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。(ローマの信徒への手紙 15章1節)

私たちは他人の欠点をいやいやながら耐えています。
そればかりか、
隣人に完全であることを要求しさえします。
それで、
他の人々からすっかり距離を置くことで平和と休息を得、
あらゆるいやなことから自由になろうとする人もでてきます。
これを実行できる力をもっている人の多くは、
隣人を退け、そうすることを自慢し、
「義のゆえに私はそうするのだ」、
などと言い放ちさえします。
その人は、
「悪人たちとではなく、
自分と同じような義なるよい人たちとだけ付き合いたい」、
と思っているのです。
このように振舞うのは、
自分を他の人々よりも優れているとみなしている者たち、
自分は正直な生活を送っており
(他の人々)より多くの恵みを受けていると思いこんでいる者たちです。
彼らは、
自分たちと異なるすべての人々を軽蔑し裁く一方で、
自分たちのことは宝石のようにみなすのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ローマの信徒への手紙 12章10節

兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。(ローマの信徒への手紙 12章10節)

友情のこもった兄弟愛に満ちた愛が、隣人に対してどんなことを耐え、寛容であろうとするか、母親の子供に対する自然な接し方から学びなさい。そのようにキリストはなさったし、クリスチャンにさえ見えず、汚らしく、頼りなく、痛ましげな罪人である私たちに対して、今もなおなさっています。私たちが痛ましいほど弱っているにもかかわらず、キリストの愛は私たちをクリスチャンにしてくださっているのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネによる福音書 13章34節

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネによる福音書 13章34節)

キリストの愛と友情は、隣り人をかけがえのないすばらしい人とみなす意志をもたらします。なぜなら、キリストは私たちのうちにおられるからです。それゆえ、私が隣り人をその短所のゆえに軽蔑するのは、適当ではありません。私はこう考えなければならないのです、「私の主はあの弱い器の中に住んでおられ、御自身の臨在によってあの人間を尊重なさっている。私も、私の主の活きている神殿や住居であるあの人に、礼儀を尽くして敬意を払わなければならない」。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルカによる福音書 10章27節

イエスは答えた。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 (ルカによる福音書 10章27節)

どのように隣人を愛するべきか、
知りたいならば、
どのように自分を愛しているか、
ちゃんと調べてみれば、それがわかります。
 
キリスト信仰者は、
自己の良心においては、
(憐れむ愛に満ちた)「医者」でなければなりません。
しかし、実際の生活の中では、
兄弟姉妹の重荷を担う
(行動をともなう愛に満ちた)「馬」でなければなりません。
 
もしも父なる神様を失ってしまうならば、
まもなく、
まわりの人も自分の兄弟姉妹ではなくなってしまうことでしょう。

主キリストの御許に来る者に対して、
主は、
その人の「渇き」を癒すばかりではなく、
その人を「あふれ出る泉」に変えて、
聖霊様をそのさまざまな賜物と共にお与えになります。
それによって主は、
その人自身がキリストを通して助けを受けたのとちょうど同じように、
その人が他の人々にも影響を与えて、
彼らを慰め、強め、彼らに仕える者になるように、
整えたいと望まれています。

イエス様を受け入れたキリスト信仰者が住んでいるところではどこであれ、
すべてのことは愛と理解のなかで行われます。
そこでは、隣人に対して悪いことを望む者はひとりもいません。
神様のものであるのが当然の栄光を神様にお返しして、
神様がすべてを私たちにくださっている「主」である、
と信仰告白する時に、
このことは実際に起きています。
この告白が人々の心をお互いへの愛で満たすので、
他の人々に対して怒ったり、嫉妬したり、傲慢に振舞ったり、
悪いことを望んだりすることはもはやなくなり、
皆が隣人に対してあらゆるよいことを望むようになるのです。

富める者たちの間では富める者に、
貧しい者たちの間では貧しい者になりなさい。
喜ぶ者たちと共に喜び、
泣く者たちと共に泣きなさい。
そうしてついには、
すべての人に対してすべての者になりなさい。
それは、
あなたが、
誰に対しても躓きにはならないで、
それぞれの人と仲直りし、
その人に合わせ、
皆に対して平等に振る舞い、
他の人も従うべき基準などではないことを、
誰もが認めるようになるためです。
これが真の「平和を愛する心」というものです。
この心は、
他の人たちの力や技量に合わせて行動し、
すべてを「よかった」と思いつづけ、
隣人のために苦しみを甘受することをやめません。
たとえそれによって
持ち物や誉れや命さえも失うことになったとしても。

愛は、感謝されないことに気がつきません。
  
あなたは信仰によってキリストを知るようになりました。
「キリストを通してあなたは義とされている」ことを知ったのです。
ですから、あなたは善い行いをはじめなさい。
神様と隣人を愛し、祈り、感謝し、宣教し、賛美し、
神様の御名を告白しなさい。
善いことを行い、隣人に仕え、
あなたに与えられた職務を忠実に果たしなさい。
これらが真の善い行いです。
恵みによりキリストを通して自分の罪が赦された、
とわかった時に
信仰と心の喜びからあふれでてくる善きわざなのです。

キリスト信仰者の生活がどのようなものでなければならないか、
真理に基づき次のように簡潔に述べることができます。
キリスト信仰者は、
神様の御前で「善い心」をもち、
隣人に対して善意をもって接しなければなりません。
すべてはそこに含まれています。

「きれいな心」は、奉仕する心であり、
皆によいことなら何でも与えていくような心です。
神様は誰をも区別なさいません。
私が隣人を愛することを、神様は望んでおられます。
そしてそれは、
私の隣人が、友か敵か、義人か悪人か、
にはかかわりがありません。
たとえ隣人が私を傷つける悪人であったとしても、
その人が「私の隣人」であることにはかわりがありません。
言うまでもなく、
義人は多くの人から愛されて、
その人の周りには自然と人が集まってくるものです。
それとは反対に、
悪人は嫌われて、
誰もその人に寄り付こうとはしないものです。
しかし、これは、まだ「肉と血」[1]であって、真の愛ではありません。
この世とは異なり、
キリスト信仰者の愛は、人に左右されるものであってはなりません。
逆に、キリスト信仰者は次のように言わなければなりません、
「私はあなたを愛しています。
しかしそれは、
あなたが義人だからでも、あるいは悪人だからでもありません。
私の愛は、
自分自身と同じように隣人を愛するように、
と私に教えてくれた御言葉に基づいているのです」。

[1] 人間的な弱さに基づく行為のこと(訳者註)。

「憐れみ」とは何か、誰でもよく知っています。
それは、
隣人に不幸が訪れた時、
あたかもそれが自分の身の上に起こったかのように受け止めて、
苦しみを共にし、できうるかぎりその人を助けようとする心のことです。
ですから、隣人の窮乏と危機にのみ目を留めるようになさい。
そうすれば、まもなく、憐れみとは何であるか、わかってきます。
もしもあなたが神様に仕えたいと思い、
神様が喜んでくださる働きをしたいのなら、
ファリサイ派の人々がやるように自分自身の罪から逃げ出したりはしないで、
隣人の中に留まり、助言や、警告や、懲らしめや、慰めを彼らに与え、
また、彼らに対して忍耐をもち、教えていくべきなのです。

お金や物をもっていて、
妻や夫や子どもたちがいて、
家や屋敷がある、
ということは、
もしもそれらにあなたが振り回されず、
逆に、それらをきちんと管理していく場合には、
罪ではありません。
神様の御心は、
私たちが貪欲や心配にさいなまれながら
金銭や持ち物のとりこになることではなくて、
心配事を神様におまかせして、働くことです。
仕える者は召使いであって、
持ち物は自分のものではありません。
その人は
持ち物を自分の思い通りに使ってはいけないし、
その持ち物によって他の人に仕えてもいけないのです。
しかし、
もしも人が持ち物の所有者であるならば、
その持ち物は所有者であるその人に仕えます。
その人は、服のない人などを見るとき、
自分の持っているお金にこう言います、
「あそこに貧しい裸の男の人がいる。
あそこには病気の人がぐったりして寝ている。
お金たちよ、出てきなさい。
あなたたちはこれからあの人たちに仕えなければなりませんよ」。
自分の持ち物をこのように扱える人は、
その持ち物の(「奴隷」ではなく)「主人」です。
そして実際に、
真に純粋なキリスト信仰者はこのように行うものです。

信仰は、キリストを、
キリストのすべての宝物とともに、
あなた自身のものとしてもたらし、与えてくれます。
愛は、あなたを、
あなた自身のすべての持ち物とともに、
あなたの隣人に与えます。
キリスト信仰者の生活は、
信仰と愛というこの二つの中に、
きよく、全きものとして、包み込まれています。
それから、
この信仰と愛のゆえに、苦難と迫害がやってきます。
そして、そこから、
忍耐の中で希望が培われていきます。

キリスト信仰者が罪を憎む時には、
悪行とそれを行う人間とを区別します。
キリスト信仰者は悪行をなくそうと努力しますが、
それと同時に、
それを行った人間が失われてしまわないように努めます。
それゆえ、
キリスト信仰者は、相手が誰であれ、
人から逃げ出したり、人を避けたり、見捨てたり、軽んじたりはしません。
それとは逆に、
人を守り、人と喜んで付き合い、
人が悪行から解放されるように助け、
人を叱り、人に教え、人のために祈り、
人に対して忍耐をもつように、振舞います。
キリスト信仰者自身も、
他の人たちと同じような弱さの中にいるので、
前述した「人」に関することは、
すべてキリスト信仰者にもそのままあてはまります。

(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)

ルカによる福音書 6章37~38節

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」(ルカによる福音書 6章37~38節)

隣人が罪を行っているのを私は見たり聞いたりすることがありますが、それについて他の人に語るように私は命じられてはいません。もしも私が隣人を批判して裁きはじめるならば、その隣人が落ち込んだ罪よりもはるかに悪い罪に私は落ち込むことになります。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルカによる福音書 6章36節

あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」 (ルカによる福音書 6章36節)

神様は私に対して善い憐れみ深いお父様です。
私はこのことを覚えて自分の心を落ち着かせ、
それから隣人に対して憐れみを示すべきです。
なぜなら、私は
自分の信仰を内側へ、
自分の行いを外側へ、隣人へと
向けるべきだからです。
これをアブラハムは実行しました。
神様の命られた犠牲をささげるためにモリヤの山に登ったときに、
アブラハムは召使とロバを山のふもとに残し、
息子のイサクのみを連れていきました(創世記 22章5節)。
私たちも同じようにしなければなりません。
神様との関係においては、私たちは「イサク」のみを同行させるべきです。
それは、信仰をもってキリストと共に行くということです。
しかし、「召使やロバ」、すなわち行いは山のふもとに残しておくべきです。
私たちの天の父なる神様は、どのように憐れみ深いお方なのでしょうか?
神様は私たちに肉体的にも霊的にも必要なすべてのものを、
一時的に必要なものや永遠に必要なものを、
「賜物」として、まったくの善性によって与えてくださいます。
もしも神様が私たちの行いに基づいて報酬を与えなければならないとしたら、
神様は私たちに地獄の火と永遠の滅びを与えるほかないからです。
神様が私たちに財産や名誉などを与えてくださるのは、純粋な恵みです。
神様は私たちが死につきまとわれている状態を見て、憐れに思い、
私たちに命を与えてくださるのです。
神様は私たちが地獄の子であるのを見て、かわいそうに思い、
私たちに天国を与えてくださるのです。
神様は私たちが裸でお腹をすかせ喉が渇いているのを見て、
私たちに服を着せ、食べ物を与え、あらゆる贈物によって養って、
私たちを憐れんでくださるのです。
それゆえにキリストは、
「あなたがたは自分のお父様に倣いなさい。
そして、お父様が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深くありなさい」、
と言われているのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

マタイによる福音書 25章45節

そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 (マタイによる福音書 25章45節)

もしもあなたがここで
隣人のわきを素通りするなら、
その隣人は天国への路上で
あなたの前にあらわれることでしょう。
そして、あなたは天国の門の前で
もう一度その隣人のわきを
素通りしなければならなくなります。

盗人の名がすべて書き込まれている大きな一覧表には、
(隣人を助けるのに必要な)持ち物をもっているくせに、
困窮している隣人のことを
気にもかけないでいる者たち全員が含まれています。
 
貪欲な人間がなしうる役に立つよいことは、
死ぬことだけです。
なぜなら、貪欲な人は、生きている間は、
神様にも他の人にも自分に対してさえも、
まったく役に立たない存在だからです。
 
自分のために生きる生き方など
のろわれてしまうがよい!
私たちがいただいた贈り物が大きければ大きいほど、
それだけより深く私たちは、
他の人たちに仕えるために謙虚にへりくだらなければなりません。
それゆえ、真のキリスト信仰者は、
キリストがなさったように、皆に仕えます。
真のキリスト信仰者は、
主が与えてくださった賜物を鼻にかけたりなどはせず、
他の人たちを見下したりもしません。

神様が私たちに与えてくださるもののなかで、
富はこの地上で一番価値のない持ち物であり、一番小さな賜物です。
それゆえ、ふつう神様は富を、
優しさに欠けた貪欲な人々に対してだけお与えになります。
しかし、彼らには富以上によいものを一切お与えになりません。
  
隣人が
飢えやのどの渇きで苦しんでいたり、
住むところがなかったり、
靴や着るものがなかったりして
困窮で苦しんでいるのを見ていながら、
その人を助けないならば、
あなたは
ほかの人の財布からお金を盗むのと同じくらい
ひどい盗みを働いているのです。
なぜなら、あなたには、
隣人が困っている時にその人を助ける義務があるからです。
あなたの持ち物は、あなた自身のものではなく、
あなたには
それを困窮している人たちに分け与えるために管理する責任があるのです。

一番のお金持ちは、一番ひどい盗人です。
なぜなら、
自分で必要としない余分な持ち物が山ほどあるにもかかわらず、
彼らはそれを必要としている人に、
ほんの少ししか分け与えようとはしないからです。
しかも、
(彼らほど裕福ではない)ほかの人たちは、
その困っている人に、彼らよりもっと多くのものを与えるものだからです。

(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者