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ガラテヤの信徒への手紙 2章21節

わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。(ガラテヤの信徒への手紙 2章21節)

もしも私たちがキリストのゆえにのみ救われるとすれば、私は自分の功績で救いを得ようとしてはならないことを、告白し教えなければなりません。なぜなら、私はキリストの功績と自分の功績とを心の中で一緒にすることができないからです。私は両方に信頼することはできません。キリストのみわざか私の行いか、どちらか一方が退かなければなりません。私が言いたいのは、私たちはよい行いをしてはいけないということではなく、私たちは自分たちの行いに基づいて神様に認めていただこうとしてはいけないということです。
(マルチン・ルター、宝石箱)


もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。(ガラテヤの信徒への手紙 2章21節より)

この御言葉はとくに迫力があります。
ここでパウロは人間の力や理性や知恵などには見向きもしません。
たとえそれらがどれほど偉大だったとしてもです。
それらが偉大であればあるほど、より容易に人は自分を欺くものです。
パウロははっきりこう言います、
「もしも義が律法によって手に入るのなら」。
たとえ神様の律法が助けに駆けつけても、
人間の理性なるものは、私たちを義とせず、
逆に義から引き離し、キリストを捨てます。
というのは、
かりに律法が義をもたらすなら、
キリストは無駄に死なれたことになるからです。
単純に、
キリストの死をあらゆる律法に対置してごらんなさい。
パウロと同様に、
十字架につけられたイエス・キリスト以外のことを
知ろうなどとは考えないようにしなさい。
そうすれば、
キリストの傍らで、すべてがその輝きを失ってしまいます。
そしてあなたは、
御言葉を正しく学んだ義で聖なる者となり、
あなたを清い御言葉と信仰の中で守られる聖霊様をいただきます。
ところが、
もしもキリストを見失ってしまうなら、
すべては無駄になってしまうのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ガラテヤの信徒への手紙 2章19節

わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。(ガラテヤの信徒への手紙 2章19節)

キリストは律法の主です。
キリスト御自身が十字架につけられ、死んで律法から離脱されたからです。
私も律法の主です。
私もキリストと共に十字架につけられ、死んで律法から離脱しているからです。
何によってそうなっているのでしょうか?
恵みと信仰によってです。
私が信仰において十字架につけられ、死んで律法から離脱するとき、
律法は、キリストに対してと同様、私に対しても一切の権利を失いました。
キリスト御自身が十字架につけられ、罪や死や悪魔から離脱されたので、
それらはもうキリストに対して何の権利もありません。
それと同様に、
私も霊において信仰を通しキリストと共に十字架につけられるとき、
死や罪や悪魔から離脱するので、
それらはもう私に対して何の権利もないことになります。
それらは私から離れて十字架につけられ、死んでいます。
しかし、パウロがここで言いたいのは、
「キリストに従う」すなわち「模範に倣う」ことではありません。
「キリストの模範に従う」ことは、
キリストと共に十字架につけられることであり、
これは肉(すなわち身体)が十字架につけられることです。
これについてペトロは、
「キリストもあなたがたのために苦しまれ、あなたがたに模範を残されました。
それは、あなたがたがこの方の御跡に従うようになるためです」、
と言っています(ペトロの手紙一2章21節)。
パウロが「ガラテヤ書」のこの箇所で語っているのは、
それよりもはるかに高所にある十字架につけられることです。
ここでは、罪と悪魔と死が十字架につけられています。
ただし、それはキリストにおいてであり、私においてではありません。
これらすべてのことをキリストお一人がなさいます。
信仰者として私はキリストと共に十字架につけられています。
それは、
罪や悪魔や死が私の中でも死んで十字架にかかっているようになるためです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)


パウロはこう言っているかのようです、
「モーセの律法は私を責め、裁きます。
しかし、
この責め裁く律法に対抗するもうひとつの「律法」が私にはあります。
それは、恵みと自由です。
この「律法」は責める律法を責め、裁く律法を裁きます」。
 
ここでのパウロは
まるで前代未聞の最悪の異端者であるかのように振舞っています。
なぜなら、パウロは、
「律法に対して死んだ者は神様に対して活きている」、
と言っているからです。
 
偽使徒たちは次のように教えました、
「もしも律法に対して生きないならば、お前は神様に対して死んでいるのだ。
もしも律法に従って生きないならば、お前は神様の御前で死んでいるのだ」。
 
ところが、パウロはそれとはまったく正反対に、
「もしも律法に対して死んでいるのでなければ、
あなたは神様に対して活きることはありえません」、
と教えます。
 
私たちは、
自分が律法よりもはるか高いところにいることが確認できるほど、
さらには、自分が律法に対して完全に死んでしまっているほど、
天の高みへと上らなければなりません。
 
ところで、
もしも私たちが律法に対して死んでいるのなら、
律法は私たちに対してもはや何の権利も有してはいません。
それはちょうど、
私たちが神様に対して活きるようになるために
私たちを律法からあがなってくださったキリストに対して、
律法には何の権利もないのと同じです。
 
この意味は、
「私たちは律法によって義とされるのではなく、
キリストへの信仰によってのみ義とされる」、
ということです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

(「義とされる」というのは、神様に受け入れていただけるのにふさわしい存在になる、という意味です。訳者註)

ガラテヤの信徒への手紙 2章17節

もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。 (ガラテヤの信徒への手紙 2章17節)

パウロが言いたいのは次のことです。
私たちがキリストにあって義とされるのが本当だとしたら、
私たちは律法によって義とされるべき罪人ではありえません。
もしもそれが本当ではなく、逆に、
私たちは律法やその行いによって義とされなければならないとしたら、
私たちがキリストを通して義とされることはありえなくなります。
私たちは、
キリストを通しては義とされないのか、
それとも、
律法を通しては義とされないのか、
そのどちらか一方が間違っているのです。
しかし、
私たちはキリストを通して義とされるのであり、
律法を通してではありません。
これについては証拠を挙げることができます。
もしも人が義とされるために律法を守ることが必要だとしたら、
キリストにおいて義なる人々は実は義ではなく、
ほかにまだ人を義とする律法が必要になります。
すなわち、
もしもキリストを通して義とされた人々が、
さらに律法を通して義とされる必要があるのなら、
キリストは律法の設定者であり罪に仕える者にほかならなくなります。
その場合には、
キリストにあって義とされた人は、実は義とされておらず、
さらに律法の義が必要になります。
しかし、
私たちは本当にキリストにあって義とされているのです。
なぜなら、福音は、
人は律法ではなくキリストを通して義とされる、
と教えているからです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ヨハネによる福音書 16章8節~9節

その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、(ヨハネによる福音書 16章8節~9節)

いと高きお方が罪とみなされることを、私たちも罪と認めましょう。
ここで言われているように、不信仰は罪です。
ところで、「キリストを信じる」とはどういうことでしょうか?
それは、
「キリストが神様である」とか、
「キリストは天国で父なる神様と共に同じ力によって支配している」
ということを信じることだけではありません。
この程度なら他の多くの人たちも信じています。
キリストへの信仰の核心は、
「恵み深い神様なるキリストが、私の罪を取り去り、
私と父なる神様を仲直りさせてくださったおかげで、
私の罪はキリストに属し、
キリストの義は私に属するようになっている」、
と信じることです。
ここで「交換」が生じています。
世のすべての罪はキリストの上にあり、
キリストにおける父なる神様の義は、
私たちのすべての罪を飲み込みたいのです。
そして、この信仰こそが、
私をきよめて御父様に喜んで受け入れていただける存在にします。
たとえ義とされた信仰者の中に罪が残っていたとしても、
それらの罪は彼らの罪とはみなされず、
それらが彼らを滅ぼすことはできません。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者