新約聖書

ヨハネの黙示録 21章6節

また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。(ヨハネの黙示録 21章6節)

この井戸は涸れることがありません。それは恵みと真理に満ちており、どんなにたくさん汲んだとしても少しも減りません。私たちが皆一斉に汲んだとしても、空っぽになりません。それはいつでもあらゆる恵みと真理の永遠無限の泉、底のない井戸です。そこから汲めば汲むほど、それだけいっそう豊かに永遠の命へと途切れることなく流れ行く水が懇々と湧き出てくるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネの黙示録 14章13節

また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」(ヨハネの黙示録 14章13節)

「第二の死」(終わりの日に復活して永遠の死という裁きを受けること)は信仰者に対しては支配力を失い、キリストを通して命へとかえられています。あとに残っているのは、ほんの小さな死の胎、砂糖のように甘い死だけです。クリスチャンは死ぬことを通して、その「肉」(この世での身体)が不信仰、重くのしかかる罪、悲惨、悲しみ、誘惑から解放され、信仰、永遠の義、完全性、喜びへと移っていきます。この死(主に会って死ぬこと)は地上でのどのような人生よりも甘いものです。心に咎めがなく、信仰と永遠の命の確信をもって死ぬことは、私たちがこの人生や物や享楽から得ることができるような喜びよりも大きな喜びです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネの黙示録 3章20節

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。(ヨハネの黙示録 3章20節)

あなたがキリストを探しているのではなく、キリストがあなたを探しておられるのです。あなたはキリストを見つけませんが、キリストはあなたを見つけます。あなたの信仰はキリストから来ます。キリストが来られないところでは、あなたも外に取り残されます。福音のないところには神様がおられません。そこにあるのは罪と腐敗だけです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネの手紙一 5章12節

御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。(ヨハネの手紙一 5章12節)

使徒ヨハネは、これよりも単純に、明瞭に、力強く語ることができるでしょうか。この教えに疑いを抱いたり挑戦したりする必要があるでしょうか。もしもあなに神の御子キリストがおられるならば、あなたは自分の永遠の命について確信することができます。使徒ヨハネが言っているように、この証しと宣教とを信じるときに、あなたはキリストをもっています。生きているときも死ぬときも、この神的な永遠の真理を揺るがずに信頼しなさい。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネの手紙一 5章11節

その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。(ヨハネの手紙一 5章11節)

イエス様の御名はこの世のいたる所で御言葉の中に響いています。イエス様は私たちの只中で目に見える存在であろうとはなさらず、むしろ、私たちがイエス様のことを御言葉の中に聴くことを望んでおられます。来るべき世では、イエス様の御名を宣教することはなくなり、私たちは神様の独り子を目にすることになります(「ヨハネの手紙一」3章2節)。この世では、私たちはイエス様を見ませんが、御言葉の中に聴くことができます。神様の独り子の御名がすべてにおいて大切な唯一のことです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネの手紙一 5章10~11節

神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。(ヨハネの手紙一 5章10~11節)

人は自分が恵みに与っている状態にいるかどうか知る必要がない、などという考えを抜き去るように、全力を尽くしましょう。それはこの世で人を最も害する虚妄です。私たちを疑いへと落とし込む説教者たちは、あらゆる点で失格です。私たちは、自分たちには神様がおられ、罪の赦しと永遠の命が神様の御国にある、と確信しなければならないからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネの手紙一 5章6節

この方(イエス・キリスト)は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。(ヨハネの手紙一 5章6節)

信仰において洗礼を受け入れる者は、キリストの血によって自分自身の罪から本当に清められます。私たちは罪の赦しを自分の行いによって手に入れるのではなく、神様の御子の死とその流された血によっていただくのです。そして、この罪の赦しを、神様は洗礼に結び付けてくださいました。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネの手紙一 5章4節

神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。(ヨハネの手紙一 5章4節)

キリストがこの世で歩まれた「歴史」を知っていることは信仰ではありません。悪魔どももそれを知っています。「信仰」と私たちが呼ぶのは、聖霊様が与えてくださる新しい光と力のことです。それによって私たちは悪魔の脅迫に打ち勝つのです。この勝利はクリスチャンであることの目印であり、神様から生まれた人たちはそれをもっています。その目印は、クリスチャンを、神様の御言葉に表面的には触れてはいてもその力を一度も経験したことのない偽の子供たちから区別します。
(マルチン・ルター、宝石箱)


信仰は、神様の恵みへの生き生きとした大胆な信頼です。
信仰は、確信に満ちているので、
神様の恵みに頼り切って
千回死ぬのもいとわないほどです。
 
神様の恵みを知って信頼するとき、
人は、神様やすべての被造物に対して、
びくびくせずに心から喜ぶ者にしていただけます。
 
神様の恵みを知ってそれに信頼する人は、
神様への愛から、
神様への賛美のあらわれとして、
無理強いされなくても、
すべてに対してよいことを行いたくなり、
すべてに仕え、
すべてを耐えます。
それゆえ、
行いと信仰を互いに分け隔てるのは不可能です。
それはちょうど
火が燃えていることと火が輝いていることとを
分けることができないのと同じです。
 
私たちには、
信仰よりもよいものをさがす必要がありません。
信仰から目をそらさないようにしましょう。
私たちの信仰が成長して強められていくためです。
なぜなら、
信仰の成長は、
信仰の誕生と同じように、
なくてはならないものだからです。
ただし、
これらすべてのことは神様のみわざなのです。
 
わずかな「ミルクの信仰」は、まだひよわなものです。
本当の試練がやってくると、
それによって信仰が試されますが、
神様から信仰を強めていただく必要があります。
そうしなければ、
そのわずかな信仰は試練に耐えることができません。

信仰が最高に力強く素晴らしい状態にあるのは、
嘆きや苦しみが最も辛い時にほかなりません。

信仰は活きており、働いており、熱心で、偉大なことです。
それゆえ、
それが善いことを行わないでいることは、到底不可能です。
信仰は、
「善いことをどうしてもやらなければならないのか」、
などとぼやいたりはしません。
そんなことを口にする前に、
すでに信仰は善きわざを働きの中で行っているのです。
 
信仰は光です。
理性が暗さを増していき、恥に陥るときに、
この光は私たちを導き、暗闇の中で私たちのために輝きます。
 
私はしばしば二つの信仰について話してきました。
あるタイプの「信仰」は次のようなものです。
あなたはキリストを、
福音全体に描かれ啓示されている通りに信じてはいますが、
あなた自身については、そのようなお方としては信じてはいません。
あなたは、
自分がキリストからすべてをいただいているのか、
それともこれからいただくのか、
確信がもてません。
こうした「信仰」は無きに等しいものです。
それでは、
キリストを味わったり、
キリストに対して「素晴らしいお方だなあ」
という感情や愛をいだいたりすることが、
決してできません。
それは
「キリストを取り扱う信仰」ではありますが、
「キリストへの信仰」ではありません。
そのような「信仰」は
悪魔にも、神様をないがしろにしている者たちにもあります。
あなたの救いは、
あなたがキリストを「義人たちのキリスト」であると
信じることにはありません。
そうではなく、
あなたがキリストを「自分自身のキリスト」として
信じるところにあるのです。
この信仰こそが、
キリストをあなたにとって愛するお方とし、
キリストがあなたの心の中で愛らしく感じられるようにするのです。
その結果、
何の強制もなしに、愛とよい行いとが生れてきます。
もしもそれらが生れない場合には、信仰もそこにはないのです。

神様はその人自身を通して
偉大なみわざを成し遂げたいと望まれている、
という確信を失わないようにしなさい。
 
神様があなたに何を望まれているか、
揺るがず、疑わず、
注意を凝らさなければなりません。
  
あなたがたは信じなければなりません。
こう聞くとあなたがたはすぐに、
「私は自分から信じ始めることにしたい」、
と言うでしょう。
あなたがたは、
信仰とは、
あなたがた自身の仕事や力や行いのことであるかのように思い込み、
あまりにも安易に「行い」に走ってしまいます。
しかし、それではいけないのです。
あなたはこのことを神様にゆだねなければなりません。
自分を信じてはいけないのです。

信仰は
神様からの賜物であり、
神様の力であることを、
まず始めに学びなさい。
それは、
神様おひとりのみに栄光を帰するためであり、
誰も自分の力を誇ることのないためです。

私たちを引き寄せ、御言葉を与え、
御言葉を通して聖霊様と信仰を与えてくださるのは、
天の御父様です。
聖霊様と信仰は、
そのどちらも神様からの賜物です。
私たちの仕事や力の結果ではありません。
 
もしも私たちが神様に、「聖霊様をください」、と祈るなら、
神様は喜んで聖霊様を与えてくださいます。
「御言葉を聞けば、すぐにそれを信じることができる」、
などと思い込み、傲慢にならないように注意しなさい。
さもないと、
「よい行いをするのは難しいけど、信じることはすぐに習得できる」、
などと考えるようになってしまいます。
   
試練もなく、悲しいこともなく、
へりくだる必要もなかった人々は、
信仰を取るに足りないこととみなします。
しかし、
彼らの信仰が試され、
間違った教えを見分ける必要に迫られ、
危機の最中で自分を慰めなければならない時が来ると、
歌は消え、
誰も家でくつろいではいられなくなります。

信じない人は、
「水の流れを渡りたいと思いながらも、
船を信頼するのを恐れているため、
結局自分のいるところにとどまりつづける人」、
に似ています。
信じない人は決して救われません。
なぜなら、
その人は、船に乗り込んで水の流れを渡りたいとは思わないからです。

あなたは、
もしも信じているならば、それについて話すことでしょう。
もしも話すなら、そのために苦しむことになるでしょう。
もしも苦しむなら、それから慰めを受けるでしょう。
なぜなら、
信仰と信仰告白と十字架とは互いにかかわりがあり、
真のクリスチャンに伴うものだからです。
 
信仰はすべてにおいて必要不可欠です。
信仰はすべてを軽く、善く、愛らしいものにします。
牢獄にいても、
死の荒波にさらされていても、
それは同じです。
実際その通りであると、殉教者たちは証しています。

たとえあなたが
全世界の快適な贅沢を味わうことができたとしても、
信仰がなければ、
それは重苦しく、悪く、失望に満ちた人生です。
実際その通りであると、権勢を誇った大金持ちたちは証しています。
彼らの人生はいつでも最も惨めなものでした。

(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)

ヨハネの手紙一 4章16節

神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。(ヨハネの手紙一 4章16節より)

「神様は愛そのものである」と使徒ヨハネは言います。
もしもこれが本当だとしたら、
「愛にとどまる者は神様にとどまり、
神様はその人にとどまってくださる」
ことになるにちがいありません。
そういうわけですから、
愛を些細なこととはみなさないようにしなさい。
愛は神様御自身なのです。
そして、神様よりも高くて強いものは何もないのです。
パウロもまた力の限り愛を賛美し、それについて書いています
(コリントの信徒への手紙一 13章)。
それにしても、
「神様は愛です」という御言葉ほどすばらしい言葉は他にありません。
神様は私たちの目の前で
愛を最高に愛らしく好ましい色彩によって描いておられます。
そして神様は、私たちが、
「心から人が神様と隣り人を愛するようになるときに、
その愛がどれほどすばらしいか」を考え、
そのような愛を追い求めるよう勧めておられます。
もしも使徒が
「愛は大きくて高価な宝物である」とか
「愛は壮大な王国である」とか
言うとしたら、
いったい誰がそのような愛を偉大なものと思わず、
求めもせずにいられましょうか?
愛は、この世の金銭や物や権力や知恵や義とは違います。
それは唯一の、永遠なる、
言葉では言い表せない善性であり、
あらゆるもののうちで最高の宝です。
そして、その愛の名は神様御自身です。
この神様からすべては発し存在するようになるのであり、
すべてはその同じ愛によって維持されています。
さらに、愛にとどまる人は神様にとどまり、
神様はその人にとどまってくださいます。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)


この御言葉を読んで、
「信仰だけではなく、愛もまた、私たちを義とするのではないか」、
と考える人もでてくるかもしれません。
しかし、使徒はここで、
「どのようにして私たちは神様の御前で義とされ、
神様の恵みにあずかるのか」、
とか、
「神様が私たちにキリストを通して与えてくださっている愛を、
どのようにして私たちは把握できるのか」、
といったことについて教えているのではありません。
それらは、信仰を通してのみ実現するものです。
使徒もこのすぐ前の箇所で、
「イエス様が神様の御子であることを告白する人のうちには、
神様がとどまってくださり、その人も神様のうちにとどまる」、
と言っている通りです(ヨハネの手紙一 4章15節)。
使徒はここで、
私たちクリスチャンが互いに熱心に愛し合うように、
勧告しています。
愛を絵で表現したいなら、
神様御自身を描かなければならないでしょう。
使徒は神様と愛について、ふさわしいイメージを提供しています。
その目的は、
このすばらしいイメージを通して、
私たちを神様のみもとへとひきよせ、
私たちが互いに愛するよう鍛錬し、
嫉妬や怒りや喧嘩を避けるようになるためです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ヨハネの手紙一 4章10節

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(ヨハネの手紙一 4章10節)

もしも神様が私たちを愛してくださったのでなければ、私たちは神様を愛することができないでしょう。なぜなら、神様は人に対して憐れみ深く人を愛してくださることを信じている人しか神様を愛することはできないし、「神様は私たちを地獄へと裁こうとしている」と思い込み、神様を避けて憎むようになるからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネの手紙一 3章18節

子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。 (ヨハネの手紙一 3章18節)

私たちは、キリストを信じるようになったときには、
またよい行いについても、次のように学ぶようになります、
「あなたは信仰を通して、キリストを理解し、キリストをいただきました。
キリストを通して、あなたは義なのです。
ですから、あなたは行って、神様や隣人を愛しなさい。
神様に祈り、感謝し、神様を敬い、賛美し、その御名を告白しなさい!
よい行いをし、隣人に仕えなさい!
職務や地位に応じた義務を果たしなさい!」
恵みにより、キリストを通して、人が罪の赦しが受け入れるとき、
これら上に述べたことは、
信仰や真心からあふれでてくる本物のよい行いなのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ヨハネの手紙一 3章17節

世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。(ヨハネの手紙一 3章17節)

クリスチャンとして私は、信仰によって自分自身の立場を思い出してこう言うべきです、「私は、キリストが御自分のからだと血とを私の(信仰の)兄弟のためにも与えてくださったことを知っていながら、その兄弟を傷つけたり、困窮から助けず放置するべきでしょうか」。神様の御子を信じて、言葉では表せない永遠の宝を受け取ったクリスチャンの心が、どうしてその隣り人を危機の只中に置き去りにできるでしょうか?
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネの手紙一 2章28節

さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。(ヨハネの手紙一 2章28節)

天国のキリストのイメージを見失わないようにしなさい。自分ではなくキリストを見つめなさい。そうすれば、あなたは永遠の救いの喜びをキリストの中に見つけます。なぜなら、キリストの中には命と慰めと救いの他には何もないからです。もしもこのイメージをしっかり心に留めておくならば、死の恐怖は消え去り、あなたは勇気をもってキリストの中で死ぬことができるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネの手紙一 2章24節

初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。(ヨハネの手紙一 2章24節)

これからはさらに多くの異端の霊があらわれることでしょう、それらはキリストを神様であるとも処女マリアの子であるとも認めないほどひどいものかもしれません。悪魔はひとつの策略が失敗すると、かならず次の策略をひねりだすものだからです。はじめからそうだったし、これからもそれは同じでしょう。それは、私たちが神様への畏れをもって目を天国へと向け、神様から助けを求め、神様が私たちの幼い信仰を育て、御自分の力によって弱い器である私たちを守ってくださるようにお願いするためです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネの手紙一 2章7節

愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。(ヨハネの手紙一 2章7節)

クリスチャンは、罪の誘惑を相変わらず感じているがゆえに心のなかで苦しみつつ自分の罪を告白する罪人です。罪を知らない者はクリスチャンではありません。もしもあなたがそのような者に出会うなら、あなたは反キリストに出会うのであって、クリスチャンに出会うのではありません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネの手紙一 2章2節

この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。(ヨハネの手紙一 2章2節)

この言葉を熱心に学び、
とりわけ「私たちの」という言葉を心に刻みなさい。
この「私たちの」という言葉は、
それを信仰によって自分にもあてはめてみるとき、
あなたの罪をも飲み込んで滅ぼしてしまうほどの威力をもっています。
キリストは数人の人々だけの罪を取り除いたのではなく、
あなたや全世界の罪をも取り除いてくださったのです。
  
このことを皆が信じているわけではありません。 
しかし、
キリストが御自分をささげられたのは、
全世界の罪のためだったのです。
 
ですから、
あなたの罪は一般的な意味での罪ではなく、
本当に「あなたの罪」であることを受け入れなさい。
キリストは他の人々の罪のためだけではなく、
あなたの罪のためにも御自分をささげられたことを信じなさい。
天使たちも喜ぶこのキリストのイメージを見失ってはいけません。
 
キリストは、
モーセのような要求する者や死刑執行人ではなく、
罪ののろいから解放してくださるお方、
恵みや義や命を賜るお方であり、
私たちの業績や聖さや義しさや正しい生活のゆえではなくて、
私たちの罪のゆえに、御自分をささげてくださったお方なのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ヨハネの手紙一 2章1~2節

わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。(ヨハネの手紙一 2章1~2節)

神様があたかもあなたを見捨てようとして怒っているように見えるときには、こう言いなさい、「憐れみ深い神様、まず『身代金』である、あなたの愛する御子を見捨ててください!あなたは御子を見捨てたりはなさらないのでしょう!」。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネの手紙一 1章8~9節

自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。(ヨハネの手紙一 1章8~9節)

私たちは誰が正しいクリスチャンか、良心以外によっては識別できません。正しいクリスチャンも罪に落ち込むことがありうるし、クリスチャンのふりをしている者がたいへん立派に生活していることもあるからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネの手紙一 1章8節

自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。(ヨハネの手紙一 1章8節)

クリスチャンを外から見える生活態度に基づいて評価することはできません。なぜなら、たとえ人が自分の良心に反するような罪の生活を公然と送っていない場合であっても、それで「その人には罪も落ち度もない」ということにはならないからです。それゆえ、クリスチャンは日々「私たちの罪を赦してください」と祈るのです。(中略)クリスチャンを知り正しく評価したい者は、それを信仰において行いなさい。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨハネの手紙一 1章1~2節

初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。(ヨハネの手紙一 1章1~2節)

これ以外の方法では、神様はキリストをこの世に贈ることができませんでした。神様はキリストを御言葉に着せ、そうしてキリストを贈り、すべての人に差し出さなければなりませんでした。そうでなければ、キリストはひとり取り残されて誰にも知られないままになり、私たちはキリストの死から何も得ることがないままになったことでしょう。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者