タグは ‘神のみもとに行ける’

マタイによる福音書 3章17節

そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。(マタイによる福音書 3章17節)

キリストの洗礼があなたの洗礼であり、あなたの洗礼がキリストの洗礼であるために、あなたは自分の洗礼と共にキリストの洗礼のもとへ来なければなりません。このようにすれば、あるのは「ただひとつの洗礼」だけです。洗礼は、それによって私たちの罪が洗い去られるような「洗い」なのです。二ケア信条で、次のように告白するとおりです、「ひとつの洗礼が罪の赦しを与えることを、私たちは告白します」。聖パウロはこう言っています、「キリスト・イエスへと洗礼を受けた私たちは皆、この方の死へと洗礼を受けたのです」(「ローマの信徒への手紙」6章3節)、また、「キリストへと洗礼を受けたあなたたちは皆、キリストを身に着けたのです」(「ガラテヤの信徒への手紙」3章27節)。もしも仮に洗礼が私たちに「このこと」を、すなわち罪の赦しを、もたらさないのなら、洗礼には何の益もないし、他の洗いよりすぐれているということもなくなります。「キリストは私たちのために洗礼をお受けになった」ということを、私たちは知って信じなければなりません。そして、こう言わなければなりません、「この方の洗礼は私の洗礼であり、私の洗礼はこの方の洗礼です。この方はこの世の罪を担っておられる神の小羊だからです」。
(マルチン・ルター、宝石箱)


これが、あの救い主、私たちを罪や死や悪魔や地獄から解放してくださる方です。このことから私たちは、どうすれば神様のみもとに行けるかを知ります。愛する御子キリストを通してのみ、私たちもまた、天のお父様の愛する子供になるのです。御子キリストは天のお父様のみもとに座っておられます。天のお父様は御子を見つめ、御子を抜きにしては誰に対しても好意を示されません。天のお父様の御心に適うことがあるとすれば、それは御子を通してそのようになるのです。こういうわけですから、天のお父様のみもとへ行きたい人は、この愛する御子にしっかりとしがみつき、御子におんぶしていただかなければなりません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者