テサロニケの信徒への手紙一 5章17節
絶えず祈りなさい。 (テサロニケの信徒への手紙一 5章17節)
私たちクリスチャンは、
いつも口で祈るわけではないにせよ、
すくなくとも心の中では、
絶えず祈ることを義務付けられています。
なぜなら、
神様の御名が聖とされ、御国が到来し、御心が行われ、
神様が私たちのために地上に
平和とよい天候と健康な体を与えてくださるように、
皆が毎瞬ごとに心から望むべきだからです。
こういったことを絶えず心で望むのが
クリスチャンというものです。
神様の御名が聖とされ、御国が到来し、御心が行われ、
神様が私たちのために地上に
平和とよい天候と健康な体を与えてくださることと望むこと、
これが霊的な祈りであり、心からの祈りなのです。
私たちはこうした祈りを本当に必要としています。
というのは、
私たちの周りには、
罪や恥辱に落ち込む危険が待ち受けているので、
悪魔や自分自身の肉的な欲望に対して
一瞬たりとも気を緩ませることができないからです。
心の中だけではなくて、口にも出して、祈っていくことが大切です。
祈りによって私たちは戦い、祈りによって私たちは勝ちます。
主なる神様は、
御自分に乞い求める者たちが激しいほど熱心であることを、
喜んで見ておられます。
それゆえ、
私たちはこの「乞い求める技術」を学ぶべきです。
それは、
私たちがよく神様に祈るためであり、
神様を避けたり神様に祈ることを躊躇したり止めたりしないためです。
神様は
たくさんのことを私たちに与えたいと望まれており、
それが御自分の栄光を輝かせることにもなると思われています。
私たちが神様から多くのよいことを期待して祈るのは、
神様にとって喜ばしいことなのです。
愛する兄弟姉妹の皆さん、
心の中で祈ってください。
時々は口でも祈りなさい。
なぜなら、
神様は活きておられ、
祈りは世界を支え保っているからです。
祈りがなければ、
世界はまったく違った様相を呈することでしょう。
祈るクリスチャンは皆、
助け手であり癒し手です。
さらに彼らは、
世の支配者であり「神々」でさえあります。
彼らは世界を支え続けている「足」なのです。
世は、このことの報酬として、
彼らに対して、
周りから圧迫され侮蔑された生活、
汚らしい泥の中を歩むことを余儀なくする生活
を強います。
「もしも自分が救われており、
熱心に祈ることができるのなら、
私の祈りは神様に聴かれるだろうに」、
とあなたは言うかもしれません。
私は答えます、
「もしも、「自分が救われている」、と感じないかぎり
祈ろうとしないなら、
あなたは決して救われたりはしないでしょう。
なぜなら、
私たちの祈りは自分の救いに基づくべきものではなく、
神様の不変の真理に基づくべきものだからです」。
もしも祈りを軽んじる場合には、私たちには何の防御もありません。
祈ることはクリスチャンの手芸です。
祈りの本質と性質は、
思いと心を神様の方へと上げていくことにほかなりません。
この霊的な祈りが絶えず行われますように。
身体を使う仕事を行っている間にも。
天の父なる神様は、
私たちがあまりにも頻繁に願い祈り求めるせいで
疲れてしまうような人間ではありません。
あなたが祈れば祈るほど、
神様は、より深く喜んで、あなたの祈りを聴いてくださいます。
神様に、すべてをはっきりと正直に告白しなさい。
小出しにはしないで。
なぜなら、神様も、
ちょっぴりまぶす程度に小出しにしたりはなさらずに、
洪水のように、
あなたの上に注ぎかけてくださるからです。
祈りがいかに強力なものであるか、
祈りがいかに多くのことを達成するか、
ということは、
経験を通してそれを自分で学んだ者でなければ、
誰も信じようとはしないでしょう。
大きな危険にさらされているときに、
祈ることができるのは本当に素晴らしいことです。
真理にあって祈った時には、
私の祈りは十分に聴かれ、
私は願い求めたよりも多くのことを
いただいてきた体験が私には何度もあります。
なるほどたしかに神様は、
すぐには私の祈りを聴いてくださらなかったことがありました。
しかし結局は、
それらの祈りもちゃんと聴かれたのです。
確固とした熱情的な祈りは、
途絶えることがなく、疲れも知りません。
それは最後の瞬間まで待ち望み続けます。
それは天と地を貫きます。
ですから、
このような祈りが聴かれないままに終わることはありえません。
なぜなら、
私たちがそのように祈ることは、
神様にとって喜ばしいささげものだからです。
祈って戦いましょう。
なぜなら、
信仰の言葉と義とされた者の祈りとは、
あらゆるものの中で最高の武器だからです。
靴屋が靴を作るように、
仕立て屋が外套を縫うように、
クリスチャンは祈らなければなりません。
祈りはクリスチャンの職務です。
何かよいことが起きる場合には、
それは祈りを通してのみ実現していきます。
そして、
祈りは広大な権力を有する皇帝にたとえられます。
人間の生活にかかわる事柄に関して、
私たちはすべてを祈りを通じて行います。
整っていることを私たちは制御します。
欠けていることを私たちは正して直します。
私たちは苦しみに耐えます。
私たちはあらゆる不幸に勝ちます。
私たちはすべてのよいものを保ちます。
祈りによって。
暴力や権力に対抗するためには、
祈りに勝る助言はありません。
ヒエロニュムスは
アガトンというあるクリスチャンの先達について語っています。
このアガトンという人は沈黙することを学ぶため
30年間も口に石をくわえていました。
しかし、彼はどうやって祈ることができたのでしょうか。
彼が心の中で祈っていたことは疑いもありません。
そしてこのような祈りは
神様に喜んで受け入れていただけたことでしょう。
なぜなら、
神様はまさにこのような祈りを探し求めておられるからです。
もしも自分の祈りが聴かれなかったことに自分で気が付いたなら、
あなたは正しく祈ってはいないのです。
何が神様の御名を聖とすることにつながるのか、
何が神様の御国を広げていくことになるのか、
何が神様の御心を実現させていくのか、
私たちが正確に知るのは難しすぎるし、
どのようにして神様があなたに御自分のパンをお与えになるのか、
どのような方法で試練や危機や悲惨から救い出してくださるか、
を正確に知ることもとても難しいからです。
私たちが何を祈るべきであるかについては、
言葉で表すことができますが、
いつ、どこで、どのようにして祈りが実現するかについては、
私たちは把握できません。
危機がすぐそこまで迫ってきた時には、
「主の祈り」が教えているように祈らなければなりません。
すなわち、
「神様、私を助けてください、
もしもそれによって神様の御名が聖とされ、
神様の御心が実現することになるならば」、
とあなたは祈らなければなりません。
(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)