ローマの信徒への手紙 6章4節

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。(ローマの信徒への手紙 6章4節)

キリストの復活を宣教する御言葉のもとに留まっているだけではいけません。
御言葉を聴き、それについて話すことで、
「キリストにお仕えする」ことにはならないのです。
御言葉は、私たちの命を通しても表にあらわれなければなりません。
死んだ人に命についてたくさん話したところで、
命はその死人を助けはしません。
それと同じように、
罪人に義について話しても、
もしもその罪人が罪の中に留まるならば、
義はその罪人を助けはしません。
あるいは、
迷妄に陥っている人に向かって真理について語ったところで、
もしもその迷い人が自分の誤謬と暗闇を捨て去らないならば、
真理はその迷子を助けはしません。

今や福音があきらかにされ、キリストについて世界中で宣教されています。
とはいうものの、
福音の光に照らされてそれをはっきり理解するのは、
福音を受け入れ、信仰の歩みの中でまどろみから覚めた人たちだけです。
眠り込んでいる人たちにとっては、太陽も昼間も役には立ちません。
なぜなら、
彼らには光がなく、
太陽も昼間もないときと同じくらい何も見えてはいないからです。

人がパン種をパンの生地から分けることができないのと同様に、
悪魔はキリストを教会から分けることができません。
生地はパン種によってすでに膨らんでいます。
悪魔にはパン種を生地から分けることが許されていません。
悪魔がそれを煮ようが焼こうが焦がそうが洗おうが、
パン種なるキリストはいつも生地の中におられ、
終わりの日までそこに留まりつづけています。
そうして、ついにはすべてがパン種によって膨らみます。
生地のごく小さな部分も含めて、膨らまないところはなくなります。

「古い人」の心の思いが死んだ後、
「新しい人」の命全体とあらゆる力とは、
その変化に従って柔軟に曲げられ変えられていかなければなりません。
たとえば蛇は、自分の古くなった皮を脱ぎ捨てるために窮屈な穴をさがします。
そして、それを通り抜けることで皮を脱ぎ、穴の外に捨てます。
それと同じように、人間もまた、
福音に対して降伏し、
神様が嘘をつくことはありえない、と信頼しつつ、
福音の約束の中に入り込まなければならないのです。
このようにして人は「古い皮」を脱ぎ捨てます。
自分の光や、自分の意見や、自分の意志や、
自分の愛や、自分の欲望や、自分の話や、自分の活動を
「外」に捨て去ります。
そうして人はまったく新しい人に変わるのです。
この「新しい人」は、今までとは違うやり方で、
裁き、決断し、意志し、望み、話し、
考え、愛し、欲し、計画し、影響を与えます。

聖霊様はキリスト信仰者に与えられていますが、
それは、聖霊様が私たちの心の中の愚かな考えと戦ってくださるためです。
「愚かな考え」とは、義を拒絶する考えのことです。
この「義」とは、
神様が(イエス様の十字架のみわざのゆえに)
私たちを受け入れてくださる根拠であり、
私たちの信仰を深めるために用いてくださるものです。
それからさらに聖霊様は、
私たちの霊や魂や身体が、「聖化」の中で、
日に日に磨きがかけられ成長していくように、
私たちを祈りやあらゆるよいわざへと励ましてくださいます。
 
私たちは、神様の律法を本来なら完全に守るべきであるのに、
実際はそうできません。
救いの恵みの御国では、そうした不完全さについて、
私たちはキリストによって、罪の赦しをいただきます。
しかし、それとともに私たちにはそのとき聖霊様が与えられます。
この方は、私たちの中に
神様の御命令に従おうとする新しい意欲と愛を燃やしてくださいます。
これは救いの恵みの御国で始まり、「最後の日」に至るまで続いていきます。
そしてその日には、私たちはまったく完全な者になります。

絶望の中で、私たちは希望をもち続けなければなりません。
なぜなら、恐れは絶望の始まりにほかならないし、
希望は救いの始まりにほかならないからです。
相戦っているこれら二つ(恐れと希望)は、
いやおうなく私たちの中に存在し続けます。
私たちの中には相戦っている「古い人」と「新しい人」がいるからです。
「古い人」は恐れを抱き、絶望に陥り、死ぬほかありません。
「新しい人」は希望を抱き、安定して、成長していくことになっています。
これら二人の「人」は今も一緒に同じ人間の中に存在しており、
それゆえ、一緒に同じ神様のわざの中にいます。
彫刻家は、不要な部分の材料を砕いて除去することで、
造ろうとしている像をより美しくしていきます。
それと同じように、
(神様への正しい)畏れは「古い人」なるアダムを砕いて死に至らせます。
それによって、「新しい人」を形作る希望が成長していきます。

再び生まれて御霊と恵みの中で新しく創造されてはいない人たちは、
神様とその栄光を知ることが決してできません。
 
十字架につけられたキリストを知ることを学びなさい。
そして、
「主イエス様、あなたは私の義です。でも、私はあなたの罪です」、
と言うことを学びなさい。

もしも私が神様を心の底から魂の限りを尽くして愛するなら、
私の目は冷淡ではないはずですし、
私の舌は悪い言葉を一言も口にしないはずですし、
私の手や足や耳は怒りのそぶりも見せないはずです。
それどころか、私そのものが、
外的にも内的にも、足の先から頭のてっぺんまで、
愛の中を歩み、神様を抱きしめ、敬うことでしょう。
  
神様を畏れ信仰の中で生きる人、
神様が与えてくださることに深い信仰の中で満足し、
それを神様の中で正直に保ち、
誰にも悪いことや損害を与えない人は、
真の意味で「豊かな」人です。
そのような人は、
貧しさの中でも「最高のもの」をもっています。
それは、神様の祝福です。

(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者