ヨハネによる福音書 16章16節
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。(ヨハネによる福音書 16章16節)
愛する弟子たちと同じように、私たちは「しばらくの間」とはどういう意味か体験してみるべきです。なぜなら、これは私たちが慰めや指導を受けるための模範や教えとして書かれているからです。私たちはこれを箴言として用い、経験や感情に生かさなければなりません。それは、「造り主は時には私のもとに来てくださり、時には私からお隠れになります」と、いつでも言うようになるためです。ときには御言葉は私を感動させることなく、脇を素通りしていき、その力を感じることさえありません。そういう時には、ちょうどそのとき私たちはこの「しばらくの間」を生きており、私たちは力と忍耐とによって自分を守るべきだ、と気づくのが大切です。
(マルチン・ルター、宝石箱)
あなたは自分の「しばらくの時」が必要です。
その時、
あなたは忍耐強くあらねばなりません。
キリストは隠れて退かれ、
あなたが罪や死や地獄の手中に陥るのを許されるからです。
その時には、
良心が平安を得るために何をやろうと、
あなたの心は動揺するばかりです。
キリストが消え去り、死なれたからです。
その時、
「しばらくすると、あなたがたはもはや私を見なくなります」、
という賛美歌をあなたは耳にします。
その時、
あなたはどこに逃げるのですか?
慰めも助けも存在しないのです。
しかも、あなたは罪や死や地獄の只中に座しているのです!
もしキリストが、
あなたの功績とは無関係に、
あなたのもとに直ちに来てくださらなければ、
あなたは永遠にこのような苦しみや恐れの中に
うずくまっているほかないでしょう。
もしキリストが
復活して弟子たちに顕現されなかったら、
弟子たちも体たらくのままだったでしょう。
だからこそ、
イエス様が死者の中から復活する必要があったのです。
人は皆、
この世からの別離の時に、(遅くとも)死の床で、
この苦しみを体験しなければなりません。
私たちは、
福音のゆえに火に投げ入れられ、
騒乱の張本人扱いされる時に、
この御言葉の効能を知ります。
心が強められていなければ、試練に耐えられません。
死の患いと恐ろしさを目の当たりにするからです。
どこに逃げられるでしょう?
もしキリストが来ないで、その手を退けられるなら、
私たちは滅びます。
しかし、もしキリストが私たちを助けるために来られるなら、
肉(身体のこと)は確かに死にますが、
魂には何の危害も及びません。
キリストがそれを支配なさっているからです。
この支配の中で魂は安全に保管されていて、
それをキリストの手から奪い去る者はいないからです(ヨハネによる福音書 10章28節)。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)