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コリントの信徒への手紙一 15章55節
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」 (コリントの信徒への手紙一 15章55節)
パウロはまるでこう言っているかのようです、
「死よ、お前の歯はどこにあるのか。
私の指でも噛みに来たらどうだ。
もっていた槍をどこに失くした。
そう、キリストがそれを取り去られたのだ。
お前のとげと力はどこに行った」。
ところで、「罪の力は律法である」、とパウロは言っています。
律法がはっきり知られるようになればなるほど、
それだけ罪は重くなり、痛く感じられます。
それゆえ、
「キリストは完全に死のとげを破壊してくださった」、
とパウロは言うのです。
このことをキリストは天国に持ち帰ったりはなさらず、
宣教を通じて世界中に広めるようになさいました。
そして、
キリストをこのような方として受け入れる人には、
槍が向かってくることもなく、
とげが待ち受けていることもなく、
その行く道には罪も死もありません。
これが、命と力を与えてくれる真の福音なのです。
ですから、キリストを正しく知るようになりましょう。
聖書によれば、義とは、キリストを正しく知ることにほかなりません。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
イザヤ書 53章11節
義なる私の僕はその知識によって多くの人を義とし、また彼らの不義をその身に引き受けます。(イザヤ書 53章11節より)
ここでは再び「キリストを知ることによってのみ、人は義とされる」理由が述べられています。預言者イザヤが言っているように、キリストは、私たちの不義をひとりで自らの上に引き受けてくださった神様の僕です。それゆえ、私たちはこのキリスト教の「義」の定義にゆるがずに留まらなければなりません。それは、私たちが絶望して、キリストが恐るべき裁判官や処刑執行官であるかのような間違った思い込みに陥ったりしないためです。
(マルチン・ルター、宝石箱)