タグは ‘不信仰’
ヨハネによる福音書 16章8節~9節
その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、(ヨハネによる福音書 16章8節~9節)
いと高きお方が罪とみなされることを、私たちも罪と認めましょう。
ここで言われているように、不信仰は罪です。
ところで、「キリストを信じる」とはどういうことでしょうか?
それは、
「キリストが神様である」とか、
「キリストは天国で父なる神様と共に同じ力によって支配している」
ということを信じることだけではありません。
この程度なら他の多くの人たちも信じています。
キリストへの信仰の核心は、
「恵み深い神様なるキリストが、私の罪を取り去り、
私と父なる神様を仲直りさせてくださったおかげで、
私の罪はキリストに属し、
キリストの義は私に属するようになっている」、
と信じることです。
ここで「交換」が生じています。
世のすべての罪はキリストの上にあり、
キリストにおける父なる神様の義は、
私たちのすべての罪を飲み込みたいのです。
そして、この信仰こそが、
私をきよめて御父様に喜んで受け入れていただける存在にします。
たとえ義とされた信仰者の中に罪が残っていたとしても、
それらの罪は彼らの罪とはみなされず、
それらが彼らを滅ぼすことはできません。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
ヨハネによる福音書 3章17~18節
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。(ヨハネによる福音書 3章17~18節)
一番大きな罪は、神様が恵みにより人間に対してそのすべての罪を赦してくださろうとしているのに、人間がその不信仰によって神様の恵みと真理とを虚偽呼ばわりし、キリストの死と復活を受け入れない、ということです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ルカによる福音書 14章24節
言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。(ルカによる福音書 14章24節)
福音の説教を受け入れない者は、たとえどんなに賢く上流の者であっても、ここで裁きを耳にすることになります。彼らは神様の晩餐にあずかることができず、神様の怒りが彼らの上に留まり、そして彼らは不信仰のゆえに滅びるのです。しかし、福音を受け入れた私たち、心が罪におびえて神様の恵みを斥けたりしない私たちは、怒りの代わりに恵みをいただき、罪の代わりに永遠の義をいただき、死の代わりに永遠の命をいただきます。
(マルチン・ルター、宝石箱)
マタイによる福音書 11章25~26節
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。(マタイによる福音書 11章25~26節)
神様はこう言われます、「私は福音を明瞭な言葉で書かせ宣べ伝えさせたいと望んでいます。しかしすべてはどのように聖霊が光を与えるかによって決まります。聖霊が光を与えるのは、私の言葉を真面目に受け入れる単純なひとにぎりの人たちだけに対してです。他の者たちに対しては、あのエジプト人たちに対してのように、聖霊の光は深い暗闇に包まれたままです。どれほど明瞭に私の言葉が宣べ伝えられ説教されたとしても、それは彼らにとってはただ侮辱と堕落を招くことになります。彼らは私の言葉に躓き、それを嘲って反抗し、ついには滅んでいくのです」。
(マルチン・ルター、宝石箱)
マタイによる福音書 16章18節
わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。(マタイによる福音書 16章18節)
信仰は海を乾いた道に変えますが、不信仰はペトロの乾いた道を再び海にしてしまいます。信じる者にすべてが可能です(「マルコによる福音書」9章23節)。それとは反対に、信じない者にはすべてが不可能です。信仰は「神々」すなわち「神様の子供たちや奇跡を行う者たち」を生み出し、不信仰は「人間」すなわち「悲惨の子ら」を生み出します。
(マルチン・ルター、宝石箱)