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ヨハネによる福音書 1章14節

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。(ヨハネによる福音書 1章14節より)

もしもあなたが、「でもそんなことはできっこない」、と言うなら、私は、「まさにそのとおり」、と答えます。神様である御言葉が肉(つまり人間)になった、ということは、理性や人間の知恵やあなた自身の考えに合致するものではありません。しかし、それは神様の御言葉と信仰に沿っているのです。「今日あなたたちのためにダヴィデの町で救い主がお生まれになりました。この方は主キリストです」(「ルカによる福音書」2章11節)、と愛らしい天使たちが歌ったということを、あなたも聞いたことがあるではないでしょうか。(・・・)神様は私たちの理解を超えたやり方で、次のふたつのことをひとつにすることができました。すなわち、この人こそはあの偉大なる師であり、永遠に御父と同じ神的本質を持っておられるお方だということです。イエス様御自身がフィリポにこう言われているとおりです、「私を見た者は父を見たのです」(「ヨハネによる福音書」14章9節)。
(マルチン・ルター、宝石箱)


言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネによる福音書 1章14節)

私たちの主イエス・キリストは、あらゆる恵みと真理と義と栄光と命の源泉です。この泉は、たとえそこからこの世の人が皆天使になれるほど多くの恵みと真理を汲み上げたとしても、一滴たりとも減ってしまうことがないほど、測り知れず、尽きず、底知れません。この泉には、恵みが常に滾々と満ち溢れています。キリストの恵みを味わいたい人は、それをキリスト御自身から探しなさい。この泉を空っぽになるまで汲み尽くすことは、決してできません。この泉は決して枯れることがなく、いつでも溢れるほどに一杯なのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)


すべてを生み出した源なる御言葉は命です。そして、この命が人々の光です。この光がなければ人間には暗闇しかありません。「人間は自分の行いによって神様の恵みを獲得する」などと言うのはもちろん論外です。あたかもそれが可能であるかのように、あのおかしくなっている大学が、その偶像であるローマ法王と一緒になって教え、全世界を惑わしています。人々の光となるために、すなわち人々に知られるために、キリストはこの世に来られたのです。そして、人となられ、御自身を人々の間で肉体的にも性格的にもはっきりと示してくださいました。この方は「ランプに点された光」です。なくなってしまった銀貨が、自分の行いや光に頼って、このランプを探して奔走したわけではありません。そうではなく、ランプが銀貨を探し、その光によってそれを見つけたのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

イザヤ書 60章1節

起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。(イザヤ書 60章1節)

この御言葉の箇所は、まるで光輪や栄光や誇りや知恵について語っているかのようです。福音は、神様の栄光でもあり私たちの光でもあります。福音は私たちの光です。私たちは福音を通して、神様や自分やすべてについて知るようになるからです。福音は神様の栄光です。福音を通して、「神様はどんなお方であるか」について世界中で宣教と告知がなされ、神様とそのみわざとが畏敬され、感謝されるからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者