タグは ‘悔い改め’
ローマの信徒への手紙 7章5~6節
わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。(ローマの信徒への手紙 7章5~6節)
以前には、私は、本心を神様から隠して、表面的には神様を愛しているふりを無理やり演じていました。けれども、当時の私にとって、聖書の御言葉の中で「悔い改め」という言葉ほど恐ろしい言葉はありませんでした。しかし、今の私にとっては、これほど愛らしくまた好ましい言葉は他にないのです。同じように、神様の律法も、聖書を通してだけではなく、また私たちの救い主の尊い傷を通して、私たちがそれを知るようになるときに、愛らしいものになるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
マルコによる福音書 16章16節
信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。(マルコによる福音書 16章16節)
悔い改めたときに、私たちは単純に、洗礼において私たちに与えられた約束に戻り、洗礼の力に戻り、堕落した私たちが見失ってしまっていた信仰に戻ります。悔い改める者は、なによりもまず、洗礼について考え、神様の約束を思い起こして、洗礼を受けていることを神様に感謝するべきです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
洗礼の力、影響、利益、実、目的は、「洗礼は救う」という点にあります。洗礼が授けられる目的は、洗礼を受けた者が王侯になるためではなく、御言葉が言っている通りに、救われるためです。「救われる」ということはまた、私たちがよく知っているように、罪や死や悪魔の支配からの解放、キリストの王国への入場、キリストが共にいてくださる永遠の命に他なりません。このことからまた、どれほど洗礼を尊いものとみなすべきであるか、あなたは気づくことでしょう。洗礼において私たちは言葉では表すことのできないほど大きな宝物をいただくのです。(中略)洗礼は御言葉から力を得て、新生の洗いとなっているのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)