マタイによる福音書 5章17節

(イエス・キリスト)「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイによる福音書 5章17節)

律法は病気を明示し、福音は薬を与えてくれます。

律法は、私たちが何をするべきか、を教え、
それと反対に、
福音は、神様は何を与えたいと思われているか、を教えてくれます。
 
律法は光です。
律法が照らし出し啓示するのは、
神様の恵みではなく、
永遠の命をいただけるようにするような義でもありません。
律法が明示するのは、
罪であり、私たちの惨めな状態であり、
死であり、神様の怒りと裁きです。
福音は律法とはまったく異なる光です。
福音は、明るくし、活気を与え、
慰め、怯えた心を立ち直させてくれます。
 
律法は、人を懲らしめますが、
自分自身のためにそうするのではありません。
その目的は、人をキリストの御許へと追いやるためです。
もしも生徒を懲らしめてばかりいて、
彼らに何も教えない教育者がいたとしたら、
どんなにひどいことでしょう。

もしもキリストが私や全世界の罪を
御自分の上に引き受けてくださらなかったとしたら、
律法はキリストに対して何の権限ももたなかったことでしょう。
なぜなら、律法は罪人のみを裁くものだからです。
しかし、キリストは
「救いの幸せに満ちた交換売買」を行ってくださいました。
イエス様は私たちの罪深さを引き受け、
そのかわりに、
罪なく勝利に満ちた自分自身を私たちにプレゼントしてくださったのです。
「キリストを着る者」[1]として、
私たちは律法ののろいから解放されています。
 
金の指輪に宝石がちりばめられているように、
クリスチャンの心の中には、律法の主なるキリストがいてくださいます。
 
キリストは、
律法に対して律法となり、
罪に対して罪となり、
死に対して死となってくださいました。
それは、
キリストが私たちを律法ののろいからあがないだして、
義とし、
罪や死から救い出して、
活きる者とするためです。

[1]「ガラテアの信徒への手紙」3章27節にこうあります、「キリスト(の中)へと洗礼を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです」(訳者註)。

(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者