創世記 22章18節
地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。(創世記 22章18節)
キリストはアブラハムの種(すなわち「子孫」)である、と使徒パウロは言います(ガラテヤの信徒への手紙 3章16節)。キリストはこの世すべてを福音を通して祝福されました。キリストがおられないところには、アダムが罪に落ちたときに自分やその子孫の上に招いてしまった呪いが残っています。アダムの子孫は皆、死や地獄に属している者たちです。アブラハムには、彼を通してあらゆる民が祝福されることになる、という約束が与えられているわけですが、普通に考えても、福音によって世界中に伝えられている、アブラハムに与えられたこの約束を通してでなければ、私たちが祝福に与ることは期待できません。この約束の外には呪いしかないのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
使徒パウロや預言者は皆、
神様のこの御言葉を心から賛美していますが、
それは当然です。
この御言葉によって
アブラハムや彼の子孫は皆救われて幸せになったし、
今を生きる私たちも皆その御言葉を通して
救いの幸せにあずかることになるからです。
なぜなら、
キリストはその御言葉の中におられ、
その御言葉によって全世界の救い主であることが明らかに示されているからです。
これこそがあの「アブラハムの懐」です(「ルカによる福音書」16章23節)。
そこには、
キリストの誕生前に救いの幸せにあずかったすべての人々が住んでいます。
もしもこの御言葉がなかったなら、
たとえあらゆるよいわざを行ったとしても、
誰一人救われなかったことでしょう。
さらにここで私たちが気付くのは、
旧約の時代に生きていた父祖や預言者は皆、
私たちと同じ信仰と福音をもっていた、
ということです(「コリントの信徒への第一の手紙」10章1節以降)。
アブラハムの懐の中で
彼らは皆、神様に頼って堅い信仰に留まり、救われました。
彼らと私たちの違いは、
彼らがやがて来るべき約束された種(「子孫」)を信じていたのに対して、
私たちはすでに啓示され与えられている種を信じている、
という点です。
しかし、約束は同じであり、厳粛なものです。信仰は同じ、御霊は同じ、主キリストは昨日も今日も永遠に同じです(ヘブライの信徒への手紙 13章8節)。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)