旧約聖書

士師記 7章24節前半

ギデオンは、使者をエフライム山地の至るところに送って、言った。「下って来て、ミディアン人を迎え撃ち、ベト・バラまでの水場とヨルダン川を占領せよ。」(士師記 7章24節前半)

私たちの愛する主キリストは罪や悪魔や死に勝利し、それらを追い払われたのですから、私たちもこれらの敵を圧迫し追討しなければなりません。私たちはそれらに屈従するのではなく、それらのくびきを負うのでもなく、それらを完全に滅ぼさなければなりません。すなわち、私たちは罪を殺し、悪魔に対抗し、聖霊様の御力によって神様に従わなければなりません。そのとき、私たちは敗残のミデアンびとを追討し、ヨルダン川と共に滅ぼしつくすことになります。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヨシュア記 1章1~2節

さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。(ヨシュア記 1章1~2節)

律法があるところでは、良心はいまだに罪のなかにあります。しかし、律法がないところには義のみがあり、モーセは完全に消え去って彼の墓の場所もわからなくなっているほどです。もしもモーセがいないのなら、罪もいなくなっています。そして死は優しい夢に変わっています。
(マルチン・ルター、宝石箱)

申命記 34章5~6節

主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない。(申命記 34章5~6節)

モーセが預言者として、またキリストの証人として、読まれたり聞かれたりするのを、私たちは許します。モーセのよい模範や素晴らしい律法に従うことも、私たちは許します。しかし、モーセが私たちの良心を支配することを、私たちはどんなことがあっても認めません。良心の問題に関しては、モーセは誰もその墓の場所がわからないような状態で、死んで葬られたままになっていればよいのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

申命記 32章13節

主はこれを丘陵の地に導き上り/野の作物で養い/岩から野蜜を/硬い岩から油を得させられた。(申命記 32章13節)

これはどういう意味でしょうか。どのようにすれば硬い岩に蜜がたまりオリーブが生えるなどということがありうるでしょうか。しかしそのようになるのです。最も美味しい実をつける穀類や木は硬い岩地に植えられており、そこで岩地から力と養分を吸い上げて大きくなるのです。もしも石像が私たちの目の前で油や蜜を滴らせるなら、世界中が奇跡中の奇跡としてそれについて吹聴するでしょう。しかし、私たちは今も毎日このような植物が生え出る野原や田畑を通っているにもかかわらず、それを見もせず理解もしないのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

申命記 13章4~5節

その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを畏れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わねばならない。(申命記 13章4~5節)

この言葉は怒っている裁判官の言葉ではなく、父親にふさわしい言葉です。神様はこう言われたいのです、「私はあなたに私の御言葉を与えました。それはあなたが御言葉を快くまた落ち着いて受け入れて、守り抜くためです。しかし、あなたが本当に私を愛しているか、また私の御言葉を守り抜くか、を試験するために私は偽預言者を送り込みます」。
(マルチン・ルター、宝石箱)

申命記 8章3節

主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。(申命記 8章3節)

お金と持ち物は、体のために役立ちます。ただしそれは、体が十分に健康で、それらを利用できる場合だけです。病気になったり死にかけているときには、お金や持ち物は、その持ち主にとって砂粒のようなもので、何の役にも立ちません。お金や持ち物とはちがい、神様の御言葉は永遠の宝物です。私たちは、御言葉を通して、罪や死や地獄から解放されて、恵みと永遠の命にあずかることになります。
(マルチン・ルター、宝石箱)

民数記 21章8節

主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」(民数記 21章8節)

良心の戦いや死に直面して慰めが必要なとき、私は信仰によってキリストを自分のものとし、こう言わなければなりません、「私は、私のために十字架の死を耐えてくださった神の子イエス・キリストを信じます。キリストの傷や死の中に、私は自分の罪を見ます。しかし、キリストの復活の中に、私は自分の義、永遠の命、罪や死や悪魔の支配からの解放を見ます」。
(マルチン・ルター、宝石箱)

民数記 20章10節

そして、モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか。」(民数記 20章10節)

あれほど強い賛嘆すべき信仰をもっていたにもかかわらず、水を岩から杖で出さなければならなくなったときに、モーセは深刻な疑いにとらわれました。あれほど多くの奇跡を行ったにもかかわらず、私たちの愛するモーセは理性と肉的な思いに圧倒されて、「民の不信仰はこの偉大な奇跡が起きるのを妨げるのではないか」とおそれました。本当なら、モーセは神様の御言葉に信頼すべきだったし、それを民の不信仰よりも高く大きく強いものと見なすべきだったのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

出エジプト記 32章32節

今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」(出エジプト記 32章32節)

民が救われるためには自分が悪魔の支配に落とされ身体や魂が裁かれることさえ辞さない人間(モーセ)は、優しく好ましく親切な者ではないでしょうか?しかし、問題が公的権力の職務に関わる場合には、(神様から)支配を委ねられた者としてモーセは神様の怒りを鎮めるために23000人を殺したのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

出エジプト記 20章3節

あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。(出エジプト記 20章3節)

すべての知恵は、あたかも泉から湧き出るようにして第一戒を始めとして流れ出てきます。この戒めこそ真の太陽です。この光の下で知恵ある人は誰でもはっきりものが見えるようになります。なぜなら、神様を畏れ信じる人は知恵に満たされており、全世界の先頭に立ち、すべての言葉や行いの主人となり、あらゆる教えと神様の御前で受け入れられる命とを裁く者だからです。ところが、第一戒をもたず神様を畏れず神様に信頼しない人はまったく愚かで、何をやってもうまくいきません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

出エジプト記 20章1~2節

神はこれらすべての言葉を告げられた。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。(出エジプト記 20章1~2節)

「私は主、あなたの神です」。この御言葉によって神様は次のことを意味しておられます、「横柄であってはなりません。もしあなたが横柄ならば、私はもうあなたの神ではありません。疑ってはなりません。もしあなたが疑うなら、私はもうあなたの神ではありません。私のみがあなたの神であるようにし、他の神々を探したりしないように、注意しなさい。もしもあなたに何かよいものが欠けているなら、じっと待って私からそれを探しなさい。もしも事故に遭ったり、危険に晒されたりするならば、私のところに避難し、私にしがみ付いていなさい。私はあなたに与えたいと望んでおり、あらゆる危険の只中であなたを助けたいと思っているのです。あなたの心が私以外のものに執着したり、私以外のところから休息の場を探したりしないように、注意しなさい」。
(マルチン・ルター、宝石箱)

創世記 50章20節

あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、(創世記 50章20節より)

私があなたたちの主人にならないようにするために、あなたたちは私の命を狙い、私を異邦人に売りましたが、こうしたあなたたちの策略により、かえってあなたたちは私をあなたたちの主人にしてしまったのです1。神様はあらゆる不幸さえも私たちの益になるようにされる達人です。「神様は全能ですべてを支配されている」と信頼するとき、私は敵を恐れません。なぜなら、神様は彼らの考えや心を私の考えや心と同じように支配されているからです。神様は生と死をつかさどっておられます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

創世記 45章4節

ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。(創世記 45章4節)

ヨセフがどのように自分のことを兄弟に打ち明けたか、読み流したりせずに、
ヨセフや彼の兄弟が深い驚きと恐れと激しい心の動揺にとらわれている様子を
ゆっくり時間をかけて思い浮かべてみましょう。
「私はヨセフです」と打ち明けたヨセフに対して、
私だったらどのように反応するか見当もつきません。
それはヨセフの兄弟にとっても同じことでした。
私たちの主、救い主イエス・キリストが、私たちをこの世の人生の中で、
さまざまなやり方で、ときには病気や鞭や死によって鍛錬した後で、
必ず迎えに来てくださることを思い出しましょう。
 
キリストはちょうどヨセフのようです。
ヨセフは兄弟のことに気がついていましたが、
兄弟が彼に気がつかない間は、わざとよそよそしく厳しい暴君のように振る舞い、
彼らに苦難と試練を与えました。
それは、彼らがヨセフに対して犯したひどい罪を心から知り、
それを告白するようになるためでした。
以前は私たちを今すぐにでも殺そうとしている
残酷きわまりない暴君にしか見えなかった方が、
思いもよらない真の姿を突然あらわしてくださった瞬間には、
どれほどの歓喜が湧き起こることでしょう。
その方が、「私はヨセフです」、とか、
「私はあなたがたの救い主イエスです」、
と言ってくださるときの喜びといったら!
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

創世記 32章26~32節

ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」 「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。(創世記 32章26~32節)

天使がヤコブと戦っているときに、どのようにしてヤコブの腿の付け根を打ってその腿のつがいがはずれたか、この聖書の箇所は語っています。これによってヤコブの精力は打ち砕かれ消え去りました。その後死ぬまでずっとヤコブはびっこを引き、「足萎え」と呼ばれました。しかし、ヤコブはまた「イスラエル」でもありました。そして、その意味はあらゆる仇名よりも大切でした。この世があなたにどのようなレッテルを貼ろうと、気にしないようにしなさい。あなたは神様の子供なのだから。
(マルチン・ルター、宝石箱)

創世記 28章15節

見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。(創世記 28章15節)

ヤコブがエサウから逃げているときに主がヤコブに語ったこの御言葉は、ヤコブの心がどのような状態であったかを私たちに示してくれます。神様は無意味なことをだらだらと話すお方ではありません。苦難と危機にさらされていたヤコブがこっそりと逃亡したことに私たちは気づきます。兄エサウが彼の命を脅かしていたからです。
ヤコブが自分ではなすすべがないような危険の最中にいるときに、神様が共にいて「助けと守りをあたえよう」と彼に告げてくださいました。「神様は御自分の民をお見捨てになりはしない」と私たちが確信をもつために、この御言葉は書かれています。たとえ世界全体が私たちに反対している場合でも、神様は共にいて私たちを助けてくださいます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

創世記 25章8節

アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。(創世記 25章8節)

どこにアブラハムは行ったのでしょうか。「その民に加えられた」とモーセは言います。ということは、この世での人生の終わった後で、民たちや父たちのいる場所があるのでしょうか。そうなのです。ここでは、あたかもアブラハムがある町や土地から他の町や土地へ引っ越したかのような表現が用いられています。そしてこれは、神様を信じる人皆にとっても慰めとなる、復活や来るべき命に関する明確で素晴らしい証拠なのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

創世記 23章2節

サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。(創世記 23章2節)

クリスチャンを信仰と愛以外のものを基準にして評価してはいけません。信仰については、クリスチャンは地上では何の心配もしていません。愛については、すべてがクリスチャンに関わってきます。神様は、福音によって人間らしさを私たちから取り去ってしまおう、などとは望んではおられません。神様は「人間らしさ」を人の中に大切に残し、一新なさいます。父が息子を愛し、妻が夫を愛するのは自然なことです。クリスチャンは愛する者が幸せならば共に喜び、不幸ならば共に悲しみます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

創世記 22章18節

地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。(創世記 22章18節)

キリストはアブラハムの種(すなわち「子孫」)である、と使徒パウロは言います(ガラテヤの信徒への手紙 3章16節)。キリストはこの世すべてを福音を通して祝福されました。キリストがおられないところには、アダムが罪に落ちたときに自分やその子孫の上に招いてしまった呪いが残っています。アダムの子孫は皆、死や地獄に属している者たちです。アブラハムには、彼を通してあらゆる民が祝福されることになる、という約束が与えられているわけですが、普通に考えても、福音によって世界中に伝えられている、アブラハムに与えられたこの約束を通してでなければ、私たちが祝福に与ることは期待できません。この約束の外には呪いしかないのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)


使徒パウロや預言者は皆、
神様のこの御言葉を心から賛美していますが、
それは当然です。
  
この御言葉によって
アブラハムや彼の子孫は皆救われて幸せになったし、
今を生きる私たちも皆その御言葉を通して
救いの幸せにあずかることになるからです。

なぜなら、
キリストはその御言葉の中におられ、
その御言葉によって全世界の救い主であることが明らかに示されているからです。
これこそがあの「アブラハムの懐」です(「ルカによる福音書」16章23節)。
そこには、
キリストの誕生前に救いの幸せにあずかったすべての人々が住んでいます。
 
もしもこの御言葉がなかったなら、
たとえあらゆるよいわざを行ったとしても、
誰一人救われなかったことでしょう。
 
さらにここで私たちが気付くのは、
旧約の時代に生きていた父祖や預言者は皆、
私たちと同じ信仰と福音をもっていた、
ということです(「コリントの信徒への第一の手紙」10章1節以降)。
アブラハムの懐の中で
彼らは皆、神様に頼って堅い信仰に留まり、救われました。
 
彼らと私たちの違いは、
彼らがやがて来るべき約束された種(「子孫」)を信じていたのに対して、
私たちはすでに啓示され与えられている種を信じている、
という点です。
 
しかし、約束は同じであり、厳粛なものです。信仰は同じ、御霊は同じ、主キリストは昨日も今日も永遠に同じです(ヘブライの信徒への手紙 13章8節)。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

創世記 18章26節

主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」(創世記 18章26節)

御自分のものである「教会」のゆえに神様は御自分をないがしろにしている人々をも祝福なさる、ということによく注目するべきです。もしも仮にこの世に教会や福音の説教がなかったならば、この世はもうとっくの昔に滅んでしまっているはずです。私たちの時代にも、神様は私たちと共にいてくださいます。なぜなら、私たちには御言葉とサクラメント(洗礼と聖餐)があるからです。神様は私たちを通して話され働きかけられ、多くの者を死や滅びから解放してくださいます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

創世記 15章15節

あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。(創世記 15章15節)

「自分の父たちのところへ行く」ということは、何もないところへ行ったり消え失せたりすることではありません。これはこの聖書の箇所が「父たち」について、つまり「同じ信仰、同じ希望、同じ苦難、同じ言葉をもっていた人々」について語っているということからもはっきりします。私たちは自分たちの本当の父たち、同じ「祖国」の人たちのところへ行くのです。私たちは悪霊や敵を置き去りにして「父たち」のところへ行けるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者