ヨハネによる福音書 16章23節
その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。(ヨハネによる福音書 16章23節)
「祈る準備が整った」とはっきり確信するまで祈らないことにするならば、人は決して祈ることにはならないでしょう。
私たちの祈りは自分の能力に基づくものではなくて、「神様の約束が揺るがない真理であること」に基づくものだからです。
(中略)
私たちが祈ることができ、また私たちの祈りが聞かれるのは、「自分の行いの報いとしては何も神様からいただく資格がないこと」を信じて、そのような者として、ただただ神様の忠実さに依り頼むからなのです。
(中略)
どれほど業績や能力があっても何の助けにもならないし、どれほど「ふさわしくない者」であっても祈りの邪魔にはなりません。
しかし、信じないならば、その不信仰はあなたを裁くことになります。
神様に頼るときに、あなたは「ふさわしい者」とされ、支えていただけます。
それゆえ、「自分は祈るのにふさわしく、自分の祈りは聞かれる」と信じて、決して疑ってはいけません。
そうすれば、あなたは神様の御前に出る勇気をもてるだろうし、恵み深い神様の欺かない厳粛な約束に信頼できることでしょう。
そして、神様はあなたに対しても憐れみと恵みを賜ることでしょう。
神様は、頼まれたわけでもないのに、まったくの恵みから、「誇るべき業績もない、ふさわしからぬ者たちの祈りを聞く」と約束してくださったのですから。
祈りが聞かれたり、約束がかなえられたときには、「自分がふさわしい」ことを感謝するのではなくて、神様の真理と恵みとを感謝しましょう。
この恵みにこそ神様の約束は基づいているのですから。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)