ヨハネによる福音書 3章8節

風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 (ヨハネによる福音書 3章8節)

人はこの教えに勇気付けられて、
罪や試みに苦しめられているときにもこう言えます、
「私は確かに罪を通して腐敗したこの世の子だし、
死の宣告を受けた者でさえあるが、
私の主イエス・キリストが
私の罪を十字架に運ばれ、死に勝ち、
私を天のお父様と仲直りさせてくださったことを
知っており、また信じている。
このことのために私は洗礼を受けており、
私には永遠の命が約束されている。
それゆえ、私は勇気をもって神様に頼りたいと思う」。
このように新生した人間は、
十字架につけられたキリストへの信仰を通して、
罪や死や悪魔や世やあらゆる不幸を追い払います。
さらに、このような人は、
よい行いをし、神様に対し従順で、
召された職務を熱心かつ忠実に遂行し、
隣り人を愛し、もてる力に応じて助け、彼らに奉仕します。
真の信仰にはそのような行いが伴うものです。
(中略)
真摯なクリスチャンは皆、
聖霊様のそよぎに心を向け、それに聴き入り、
キリストが十字架で私たちの罪のために死んでくださったことを
信じます。
そして、そのような信仰を通して神様の子になり、
永遠の命を継ぐ者になるのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)


風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。」(ヨハネによる福音書 3章8節より)
  
神様のみわざやそれに関わることを見たり知ったりできないほど、理性は盲目なのです。
人間の理性を過大に評価して「理性は常に至高の事柄を扱う」と主張する賢い学者たちにとっては、この真実は受け入れがたいものでしょう。
人間性の最良の部分(理性)さえも取るに足らないものであり、美しく明瞭なことを識別する力もなく、怒りや激情や妬みに満ちています。
このことを知らせるために、神様はここで私たちに具体的な例を与えてくださったのでした。
イエス様はたとえとみわざによって、人間の理性は神様の御前では盲目であり死んでいることを示してくださいました。
ですから、理性が神様のみわざに関心を持たず、それを求めもしないのは当たり前なのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者