コリントの信徒への手紙一 1章31節
「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。(コリントの信徒への手紙一 1章31節)
信仰者は皆、次のように考えなさい、
「主よ、もしもあなたが私のことを裁判にかけ、
私の生活と仕事を見たいと望まれるのでしたら、
私は、たとえ自分が洗礼者ヨハネのような存在であったとしても、
あなたの御前で耐えることができないでしょう。
あなたがその憐れみにより与えてくださったものを、
私が受け取るだけでは十分ではありません。
ここで大切なのは、真に霊的な生活だからです。
しかし、私は自分をあなたの義しい僕として誇ることができます。
それは、あなたが私に休みなく御自分の賜物をくださるからであり、
また、アブラハムに約束なさったように、
あなたは私に対してもキリストを通して憐れみ深くあることを、
約束してくださったからです。
もしも私が自分では義しくないとしても、この方は義であり、
私が聖でないとしても、この方は聖です」。
(中略)
イエス様は、私たちが、自分自身によってではなく、
イエス様によって、またイエス様を通して、
自分たちが聖であり義であることを誇るよう望んでおられます。
もしも私たちが自分のことを誇らなければならないとしたら、
私たちの状況は絶望的なものでしょう。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)