ガラテヤの信徒への手紙 2章19節
わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。(ガラテヤの信徒への手紙 2章19節)
キリストは律法の主です。
キリスト御自身が十字架につけられ、死んで律法から離脱されたからです。
私も律法の主です。
私もキリストと共に十字架につけられ、死んで律法から離脱しているからです。
何によってそうなっているのでしょうか?
恵みと信仰によってです。
私が信仰において十字架につけられ、死んで律法から離脱するとき、
律法は、キリストに対してと同様、私に対しても一切の権利を失いました。
キリスト御自身が十字架につけられ、罪や死や悪魔から離脱されたので、
それらはもうキリストに対して何の権利もありません。
それと同様に、
私も霊において信仰を通しキリストと共に十字架につけられるとき、
死や罪や悪魔から離脱するので、
それらはもう私に対して何の権利もないことになります。
それらは私から離れて十字架につけられ、死んでいます。
しかし、パウロがここで言いたいのは、
「キリストに従う」すなわち「模範に倣う」ことではありません。
「キリストの模範に従う」ことは、
キリストと共に十字架につけられることであり、
これは肉(すなわち身体)が十字架につけられることです。
これについてペトロは、
「キリストもあなたがたのために苦しまれ、あなたがたに模範を残されました。
それは、あなたがたがこの方の御跡に従うようになるためです」、
と言っています(ペトロの手紙一2章21節)。
パウロが「ガラテヤ書」のこの箇所で語っているのは、
それよりもはるかに高所にある十字架につけられることです。
ここでは、罪と悪魔と死が十字架につけられています。
ただし、それはキリストにおいてであり、私においてではありません。
これらすべてのことをキリストお一人がなさいます。
信仰者として私はキリストと共に十字架につけられています。
それは、
罪や悪魔や死が私の中でも死んで十字架にかかっているようになるためです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
パウロはこう言っているかのようです、
「モーセの律法は私を責め、裁きます。
しかし、
この責め裁く律法に対抗するもうひとつの「律法」が私にはあります。
それは、恵みと自由です。
この「律法」は責める律法を責め、裁く律法を裁きます」。
ここでのパウロは
まるで前代未聞の最悪の異端者であるかのように振舞っています。
なぜなら、パウロは、
「律法に対して死んだ者は神様に対して活きている」、
と言っているからです。
偽使徒たちは次のように教えました、
「もしも律法に対して生きないならば、お前は神様に対して死んでいるのだ。
もしも律法に従って生きないならば、お前は神様の御前で死んでいるのだ」。
ところが、パウロはそれとはまったく正反対に、
「もしも律法に対して死んでいるのでなければ、
あなたは神様に対して活きることはありえません」、
と教えます。
私たちは、
自分が律法よりもはるか高いところにいることが確認できるほど、
さらには、自分が律法に対して完全に死んでしまっているほど、
天の高みへと上らなければなりません。
ところで、
もしも私たちが律法に対して死んでいるのなら、
律法は私たちに対してもはや何の権利も有してはいません。
それはちょうど、
私たちが神様に対して活きるようになるために
私たちを律法からあがなってくださったキリストに対して、
律法には何の権利もないのと同じです。
この意味は、
「私たちは律法によって義とされるのではなく、
キリストへの信仰によってのみ義とされる」、
ということです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
(「義とされる」というのは、神様に受け入れていただけるのにふさわしい存在になる、という意味です。訳者註)