ヨハネの手紙一 4章16節
神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。(ヨハネの手紙一 4章16節より)
「神様は愛そのものである」と使徒ヨハネは言います。
もしもこれが本当だとしたら、
「愛にとどまる者は神様にとどまり、
神様はその人にとどまってくださる」
ことになるにちがいありません。
そういうわけですから、
愛を些細なこととはみなさないようにしなさい。
愛は神様御自身なのです。
そして、神様よりも高くて強いものは何もないのです。
パウロもまた力の限り愛を賛美し、それについて書いています
(コリントの信徒への手紙一 13章)。
それにしても、
「神様は愛です」という御言葉ほどすばらしい言葉は他にありません。
神様は私たちの目の前で
愛を最高に愛らしく好ましい色彩によって描いておられます。
そして神様は、私たちが、
「心から人が神様と隣り人を愛するようになるときに、
その愛がどれほどすばらしいか」を考え、
そのような愛を追い求めるよう勧めておられます。
もしも使徒が
「愛は大きくて高価な宝物である」とか
「愛は壮大な王国である」とか
言うとしたら、
いったい誰がそのような愛を偉大なものと思わず、
求めもせずにいられましょうか?
愛は、この世の金銭や物や権力や知恵や義とは違います。
それは唯一の、永遠なる、
言葉では言い表せない善性であり、
あらゆるもののうちで最高の宝です。
そして、その愛の名は神様御自身です。
この神様からすべては発し存在するようになるのであり、
すべてはその同じ愛によって維持されています。
さらに、愛にとどまる人は神様にとどまり、
神様はその人にとどまってくださいます。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
この御言葉を読んで、
「信仰だけではなく、愛もまた、私たちを義とするのではないか」、
と考える人もでてくるかもしれません。
しかし、使徒はここで、
「どのようにして私たちは神様の御前で義とされ、
神様の恵みにあずかるのか」、
とか、
「神様が私たちにキリストを通して与えてくださっている愛を、
どのようにして私たちは把握できるのか」、
といったことについて教えているのではありません。
それらは、信仰を通してのみ実現するものです。
使徒もこのすぐ前の箇所で、
「イエス様が神様の御子であることを告白する人のうちには、
神様がとどまってくださり、その人も神様のうちにとどまる」、
と言っている通りです(ヨハネの手紙一 4章15節)。
使徒はここで、
私たちクリスチャンが互いに熱心に愛し合うように、
勧告しています。
愛を絵で表現したいなら、
神様御自身を描かなければならないでしょう。
使徒は神様と愛について、ふさわしいイメージを提供しています。
その目的は、
このすばらしいイメージを通して、
私たちを神様のみもとへとひきよせ、
私たちが互いに愛するよう鍛錬し、
嫉妬や怒りや喧嘩を避けるようになるためです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)