ローマの信徒への手紙 4章18節、22節
彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。 、だからまた、それが彼の義と認められたわけです。(ローマの信徒への手紙 4章18、22節)
聖書の読者は、
「アブラハムは神様を信じた」という御言葉から、
キリスト教における「義」とは何か、
明確に定義することを学びなさい。
義とは、
神様の御子に避けどころを求めること、
すなわち、
キリストを通して神様に心から信頼することです。
さらに、
神様に避けどころを求めることに、
キリストのゆえに義と認められることを加えましょう。
このふたつは、
キリスト教における義を完全なものとして提示します。
第一に、
心の信仰とは、
神様の与えてくださった賜物であり、
キリストを本当に信じることです。
第二に、
神様はいろいろな点で至らない私の信仰を、
私が信じるようになったイエス・キリストのゆえに、
完全な義と認めてくださいます。
私は
本当に自分が神様に愛されているのか疑ったり、
絶望したり、悲しんだりするし、
私の中にはまだ罪が染み付いています。
しかし、
これらの罪を、神様は、
私のキリストへの信仰のゆえに、
私の罪過とはみなされません。
なぜなら、
肉(肉体)の中に生き続ける限り、
罪は本当に私の中に存在しつづけるからです。
しかし、
ちょうどひなが親鳥の羽に守られているのと同じようにして、
私はキリストの羽の下に隠されており、
罪の赦しという、
とりわけ大きく私の上方に広げられている天の下に
安心して住まっているので、
神様は
私の中にまだ残っている罪を覆って赦してくださいます。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)