ルカによる福音書 10章27節

イエスは答えた。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 (ルカによる福音書 10章27節)

どのように隣人を愛するべきか、
知りたいならば、
どのように自分を愛しているか、
ちゃんと調べてみれば、それがわかります。
 
キリスト信仰者は、
自己の良心においては、
(憐れむ愛に満ちた)「医者」でなければなりません。
しかし、実際の生活の中では、
兄弟姉妹の重荷を担う
(行動をともなう愛に満ちた)「馬」でなければなりません。
 
もしも父なる神様を失ってしまうならば、
まもなく、
まわりの人も自分の兄弟姉妹ではなくなってしまうことでしょう。

主キリストの御許に来る者に対して、
主は、
その人の「渇き」を癒すばかりではなく、
その人を「あふれ出る泉」に変えて、
聖霊様をそのさまざまな賜物と共にお与えになります。
それによって主は、
その人自身がキリストを通して助けを受けたのとちょうど同じように、
その人が他の人々にも影響を与えて、
彼らを慰め、強め、彼らに仕える者になるように、
整えたいと望まれています。

イエス様を受け入れたキリスト信仰者が住んでいるところではどこであれ、
すべてのことは愛と理解のなかで行われます。
そこでは、隣人に対して悪いことを望む者はひとりもいません。
神様のものであるのが当然の栄光を神様にお返しして、
神様がすべてを私たちにくださっている「主」である、
と信仰告白する時に、
このことは実際に起きています。
この告白が人々の心をお互いへの愛で満たすので、
他の人々に対して怒ったり、嫉妬したり、傲慢に振舞ったり、
悪いことを望んだりすることはもはやなくなり、
皆が隣人に対してあらゆるよいことを望むようになるのです。

富める者たちの間では富める者に、
貧しい者たちの間では貧しい者になりなさい。
喜ぶ者たちと共に喜び、
泣く者たちと共に泣きなさい。
そうしてついには、
すべての人に対してすべての者になりなさい。
それは、
あなたが、
誰に対しても躓きにはならないで、
それぞれの人と仲直りし、
その人に合わせ、
皆に対して平等に振る舞い、
他の人も従うべき基準などではないことを、
誰もが認めるようになるためです。
これが真の「平和を愛する心」というものです。
この心は、
他の人たちの力や技量に合わせて行動し、
すべてを「よかった」と思いつづけ、
隣人のために苦しみを甘受することをやめません。
たとえそれによって
持ち物や誉れや命さえも失うことになったとしても。

愛は、感謝されないことに気がつきません。
  
あなたは信仰によってキリストを知るようになりました。
「キリストを通してあなたは義とされている」ことを知ったのです。
ですから、あなたは善い行いをはじめなさい。
神様と隣人を愛し、祈り、感謝し、宣教し、賛美し、
神様の御名を告白しなさい。
善いことを行い、隣人に仕え、
あなたに与えられた職務を忠実に果たしなさい。
これらが真の善い行いです。
恵みによりキリストを通して自分の罪が赦された、
とわかった時に
信仰と心の喜びからあふれでてくる善きわざなのです。

キリスト信仰者の生活がどのようなものでなければならないか、
真理に基づき次のように簡潔に述べることができます。
キリスト信仰者は、
神様の御前で「善い心」をもち、
隣人に対して善意をもって接しなければなりません。
すべてはそこに含まれています。

「きれいな心」は、奉仕する心であり、
皆によいことなら何でも与えていくような心です。
神様は誰をも区別なさいません。
私が隣人を愛することを、神様は望んでおられます。
そしてそれは、
私の隣人が、友か敵か、義人か悪人か、
にはかかわりがありません。
たとえ隣人が私を傷つける悪人であったとしても、
その人が「私の隣人」であることにはかわりがありません。
言うまでもなく、
義人は多くの人から愛されて、
その人の周りには自然と人が集まってくるものです。
それとは反対に、
悪人は嫌われて、
誰もその人に寄り付こうとはしないものです。
しかし、これは、まだ「肉と血」[1]であって、真の愛ではありません。
この世とは異なり、
キリスト信仰者の愛は、人に左右されるものであってはなりません。
逆に、キリスト信仰者は次のように言わなければなりません、
「私はあなたを愛しています。
しかしそれは、
あなたが義人だからでも、あるいは悪人だからでもありません。
私の愛は、
自分自身と同じように隣人を愛するように、
と私に教えてくれた御言葉に基づいているのです」。

[1] 人間的な弱さに基づく行為のこと(訳者註)。

「憐れみ」とは何か、誰でもよく知っています。
それは、
隣人に不幸が訪れた時、
あたかもそれが自分の身の上に起こったかのように受け止めて、
苦しみを共にし、できうるかぎりその人を助けようとする心のことです。
ですから、隣人の窮乏と危機にのみ目を留めるようになさい。
そうすれば、まもなく、憐れみとは何であるか、わかってきます。
もしもあなたが神様に仕えたいと思い、
神様が喜んでくださる働きをしたいのなら、
ファリサイ派の人々がやるように自分自身の罪から逃げ出したりはしないで、
隣人の中に留まり、助言や、警告や、懲らしめや、慰めを彼らに与え、
また、彼らに対して忍耐をもち、教えていくべきなのです。

お金や物をもっていて、
妻や夫や子どもたちがいて、
家や屋敷がある、
ということは、
もしもそれらにあなたが振り回されず、
逆に、それらをきちんと管理していく場合には、
罪ではありません。
神様の御心は、
私たちが貪欲や心配にさいなまれながら
金銭や持ち物のとりこになることではなくて、
心配事を神様におまかせして、働くことです。
仕える者は召使いであって、
持ち物は自分のものではありません。
その人は
持ち物を自分の思い通りに使ってはいけないし、
その持ち物によって他の人に仕えてもいけないのです。
しかし、
もしも人が持ち物の所有者であるならば、
その持ち物は所有者であるその人に仕えます。
その人は、服のない人などを見るとき、
自分の持っているお金にこう言います、
「あそこに貧しい裸の男の人がいる。
あそこには病気の人がぐったりして寝ている。
お金たちよ、出てきなさい。
あなたたちはこれからあの人たちに仕えなければなりませんよ」。
自分の持ち物をこのように扱える人は、
その持ち物の(「奴隷」ではなく)「主人」です。
そして実際に、
真に純粋なキリスト信仰者はこのように行うものです。

信仰は、キリストを、
キリストのすべての宝物とともに、
あなた自身のものとしてもたらし、与えてくれます。
愛は、あなたを、
あなた自身のすべての持ち物とともに、
あなたの隣人に与えます。
キリスト信仰者の生活は、
信仰と愛というこの二つの中に、
きよく、全きものとして、包み込まれています。
それから、
この信仰と愛のゆえに、苦難と迫害がやってきます。
そして、そこから、
忍耐の中で希望が培われていきます。

キリスト信仰者が罪を憎む時には、
悪行とそれを行う人間とを区別します。
キリスト信仰者は悪行をなくそうと努力しますが、
それと同時に、
それを行った人間が失われてしまわないように努めます。
それゆえ、
キリスト信仰者は、相手が誰であれ、
人から逃げ出したり、人を避けたり、見捨てたり、軽んじたりはしません。
それとは逆に、
人を守り、人と喜んで付き合い、
人が悪行から解放されるように助け、
人を叱り、人に教え、人のために祈り、
人に対して忍耐をもつように、振舞います。
キリスト信仰者自身も、
他の人たちと同じような弱さの中にいるので、
前述した「人」に関することは、
すべてキリスト信仰者にもそのままあてはまります。

(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者