ヨハネによる福音書 14章26節

しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。(ヨハネによる福音書 14章26節)

御言葉に触れるのは、たとえそれがいつも私たちを感動させるわけではないとしても、有益なよいことです。それにより、必要に応じて私たちの心が聞いた御言葉を思い出して正しく理解し、その力と慰めを感じるようになります。それはちょうど、灰に覆われてくすぶっていた火の粉が、そこに空気を送り込んでやるとぱっと燃え上がるようなものです。
(マルチン・ルター、宝石箱)


確かに私たちは「聖霊様の説教」である神様の御言葉を聴いていますが、
それがいつも人の心を打ち、
信じて受け入れられるというわけではありません。
聖霊様の働きによって
御言葉を自分のものとし、すすんで聴く者でさえ、
かならず御言葉の実を結ぶとは限りません。
御言葉によって
悔い改めたり、慰められたり、支えられたりしないまま、
長い時がたってしまうこともしばしばあることでしょう。
とりわけ、
これといった苦しみや危険もなく、
波風も立たずのんびりと過ぎていく人生の場合には、
そうなってしまうことでしょう。
それはちょうど、
キリストが取り去られる前の使徒たちのようです。
その時には、
「キリストが肉体をともなって弟子たちと共にいてくださる」
という類の慰めしか弟子たちは考えません。
それゆえ、私たちは、
困難や危険に直面した時には、
真の慰めを慕い求めて、
嘆息するようにならなければならないのです。
そうしてはじめて、
聖霊様はその職務を遂行され、力を発揮されます。
すなわち、私たちの心を教えて、
説教が取り上げた御言葉を私たちに思い起こさせてくださるのです。
そういうわけで、
御言葉を聴いてそれを心に蒔くのは有益なよいことです。
御言葉はいつも心に響くわけではありませんが、
聖霊様はその御言葉が必要な「ある時」に、
かつて聴いたことがあるその御言葉を
私たちの心に思い起こさせてくださいます。
それはあたかも、
しばらくの間は消えそうになっていたのに、
それをかき混ぜて空気を送り込んでやるとまた燃え始める炭のようです。
ですから、
御言葉を聴いてすぐに
その実(つまり具体的な効果)を感じないからといって、
御言葉を
無力なものだとか、無駄に説教されたものだとか、
みなさないように、
また、
何か他のものに助けを求めたりしないように注意しなさい。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者