タグは ‘受肉’
ガラテヤの信徒への手紙 4章4~5節
しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。(ガラテヤの信徒への手紙 4章4~5節)
もしもあなたにとって自分が神様の子供であることが、信じられないほど大きなことであると感じられるなら、愛する友よ、他でもないあなたが神様の子供になるために、キリストはこの世に来られて、女から、律法の下に生まれてくださったことに思い起こしなさい。神様は、これよりも偉大なことを行うことがおできになったでしょうか?あなたの魂は自由に解き放たれて、神様とキリストのこととを喜ばないでしょうか?あなたがうれしそうに神様の愛への賛美を歌っていられなくするような苦難や不幸などが、まだありうるのでしょうか?
(マルチン・ルター、宝石箱)
ヨハネによる福音書 1章14節
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。(ヨハネによる福音書 1章14節より)
もしもあなたが、「でもそんなことはできっこない」、と言うなら、私は、「まさにそのとおり」、と答えます。神様である御言葉が肉(つまり人間)になった、ということは、理性や人間の知恵やあなた自身の考えに合致するものではありません。しかし、それは神様の御言葉と信仰に沿っているのです。「今日あなたたちのためにダヴィデの町で救い主がお生まれになりました。この方は主キリストです」(「ルカによる福音書」2章11節)、と愛らしい天使たちが歌ったということを、あなたも聞いたことがあるではないでしょうか。(・・・)神様は私たちの理解を超えたやり方で、次のふたつのことをひとつにすることができました。すなわち、この人こそはあの偉大なる師であり、永遠に御父と同じ神的本質を持っておられるお方だということです。イエス様御自身がフィリポにこう言われているとおりです、「私を見た者は父を見たのです」(「ヨハネによる福音書」14章9節)。
(マルチン・ルター、宝石箱)
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネによる福音書 1章14節)
私たちの主イエス・キリストは、あらゆる恵みと真理と義と栄光と命の源泉です。この泉は、たとえそこからこの世の人が皆天使になれるほど多くの恵みと真理を汲み上げたとしても、一滴たりとも減ってしまうことがないほど、測り知れず、尽きず、底知れません。この泉には、恵みが常に滾々と満ち溢れています。キリストの恵みを味わいたい人は、それをキリスト御自身から探しなさい。この泉を空っぽになるまで汲み尽くすことは、決してできません。この泉は決して枯れることがなく、いつでも溢れるほどに一杯なのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
すべてを生み出した源なる御言葉は命です。そして、この命が人々の光です。この光がなければ人間には暗闇しかありません。「人間は自分の行いによって神様の恵みを獲得する」などと言うのはもちろん論外です。あたかもそれが可能であるかのように、あのおかしくなっている大学が、その偶像であるローマ法王と一緒になって教え、全世界を惑わしています。人々の光となるために、すなわち人々に知られるために、キリストはこの世に来られたのです。そして、人となられ、御自身を人々の間で肉体的にも性格的にもはっきりと示してくださいました。この方は「ランプに点された光」です。なくなってしまった銀貨が、自分の行いや光に頼って、このランプを探して奔走したわけではありません。そうではなく、ランプが銀貨を探し、その光によってそれを見つけたのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
詩編 102編14節
どうか、立ち上がって/シオンを憐れんでください。(詩編 102編14節前半)
私はあなたのみもとに参ることができません。それゆえ、私の神様、立ち上がり、私のところに来て、私をみもとにお連れください。「立ち上がる」とは「神様が人となられた」という、最も麗しく恵み深い事実を意味しています。このようにして神様は私たちをみもとにもちあげるために私たちのところに来られました。そして、御自分の民シオンを憐れんでくださいました。
(マルチン・ルター、宝石箱)