タグは ‘安らかな良心’
詩編 32編1節
いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。(詩編 32編1節)
まったく罪がなかったり、何の罪も感じなかったりする人のことを、
私たちは真のクリスチャンとは呼びません。
そう呼ばれるにふさわしいのは、
キリストへの信仰のゆえに神様から罪を赦していただいた人です。
本当に苦しいときに、この教えは良心に安らかな慰めを与えてくれます。
キリストのゆえに人は罪赦され、義を「自分のもの」にしてよいと認められます。
クリスチャンは、とりわけ苦しいときには、
律法や罪とかかわりをもってはいけません。
このことを、私たちは無駄に繰り返し教えてきたわけではないのです。
クリスチャンであるならば、その人は律法と罪の上方にいます。
その人の心の中に、ちょうど指輪に宝石が埋め込まれているようにして、
律法の主なるキリストがとどまっておられるからです。
律法が責め立て、罪がおびえさせるときに、その人はキリストを見つめます。
その人がキリストを信仰によって理解しているなら、
律法と罪と死と悪魔に勝利し支配なさるお方がその人と共にいてくださるので、
それらがクリスチャンに危害を加えることはありえません。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
詩編 30編6~8節
泣きながら夜を過ごす人にも喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。平穏なときには、申しました「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。主よ、あなたが御旨によって砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されるとわたしはたちまち恐怖に陥りました。(詩編 30編6~8節より)
この詩編には、安らかな良心がどのようなものであるかが美しく描かれています。ダヴィデは全世界を水滴ほどのものと見なし、その怒り狂った嵐のような力を恐れません。主は彼と共におられ、彼の岩を強めてくださいます。しかし、彼が躓き、主が彼から御顔を隠した時には、彼は慌てふためき、その勇気と岩とを失ってしまいました。
(マルチン・ルター、宝石箱)