タグは ‘死後’
使徒言行録 7章59節
人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。
(使徒言行録 7章59節)
「私は祈ります、主イエス様、私の霊をお受け取りください!」
ステパノは、自分の霊がキリストにあって救われるなら、肉体もまた霊とともに救われるのだから、自分の肉体のことを心配する必要はない、と確信していました。ここには、死んだ後も命が続くことへのステパノの信仰がすばらしい形で表現されています。ステパノが殉教したのは、ステパノ自身のためではなく、私たちを慰めるためのものです。それは、ステパノの残した軌跡の上を私たちが歩むときに、イエス様が私たちの場合にも同じように働いてくださることを私たちが疑わないためなのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
ヨハネによる福音書 6章68節
シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。(ヨハネによる福音書 6章68節)
この世での命は、永遠の命のかけらです。
福音が私たちの時代に世界にひろめている光は、
私たちの主イエス・キリストのすばらしい再臨を保証する「しるし」です。
その光は、永遠の昼間と義の太陽に先立つ朝焼けのようなものです。
私たちの主なる神様は、すでにこの世での命にも、
すてきな贈り物を惜しみなく与えてくださっています。
すべてが完全になる永遠の命では、
いったいどんなことが起こるのでしょうか。
キリスト信仰者は、「この世での命」を、
目をつむってか、あるいは細目で眺めるべきです。
しかし、来るべき「永遠の命」のことは、
大きく目を開けて、輝く光のなかで見つめるべきです。
また、キリスト信仰者は、
この世では、「左手」だけで、
しかし、
天国の命では、「右手」で、
魂全体で、心を込めて、生きるべきです。
常にキリスト信仰者は、
天国の命を確信をもって待ち望まなければなりません。
命は「帆船での旅」にたとえられます。
船員は港を目指して進みます。
港に着けば、あらゆる危険から自由になります。
それと同じように、
私たちにも、永遠の命の約束が与えられています。
この命の中で私たちは、あたかも港に停泊しているかのように、
安全に安心して休めます。
私たちが乗船している船は弱々しく、
しかも、しばしば激しい嵐と恐ろしい大波が襲いかかり
船を沈めようとするので、
船が座礁したり沈没しないために、真に卓越した舵取りが必要です。
私たちの船長は、おひとり神様のみです。
神様は、舵を取り船を守られたいし、また実際にそうなさいます。
そのおかげで、
激しい嵐と大波が船を方々に押し流そうとしても、
船は損傷もなく安全な港に到着するのです。
私たちの住居は、この世ではなく、天国にあります。
私たちはそこの国民であり、神様の資産の相続者です。
そう、私たちは心のなかではすでに、
信仰と御霊によって天国にいるのです。
なぜなら、私たちは
聖なるキリスト教会を信じており、
死者の復活を信じており、
永遠の命を信じているからです。
それゆえ、私たちには、
「終わりの日」によみがえって永遠の命をいただける、
という確かな希望があるのです。
(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)