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ペトロの手紙二 1章20節
何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。 (ペトロの手紙二 1章20節)
私たちは畏れとへりくだりの心を持って
神様の御言葉を読まなければなりません。
自分自身の賢さに頼って御言葉を説明しようとしてはいけません。
自分の賢さほど、私たちの妨げとなる有害な罪は他にありません。
御言葉を軽々しくあしらってもいけません。
聖書を読んでいて、もしも理解できない考えに出会ったなら、
帽子を外して敬意を表し、その先を読み続けましょう。
御言葉を侮ってはいけません。
人間の理解に合ったやり方で説明付けてもいけません。
御言葉には最大限の真摯さをもって接するべきであり、
御言葉を尊敬し、貴重なものとみなすべきです。
もしも気の向くままに御言葉に評価を下す態度を取るなら、
私たちは自己欺瞞に陥って窮することになります。
「自分の賢さ」という沼に沈んでいく者を、
そこから助け出すのは、容易なことではありません。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
エフェソの信徒への手紙 6章11節
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。(エフェソの信徒への手紙 6章11節)
福音と聖書をよりいっそう熱心に研究するために、
それを自分の前に置きなさい。
たとえあなたが
それを前からよく知っていたり、しばしば読んできたとしてもです。
悪魔はあなたから
神様の御言葉を学ぶ意欲と研究する時間を与えまいとします。
しかし、それは疑いようもなく
悪魔があなたの心に吹き込んだわなです。
なぜなら、悪魔は、
御言葉を学ぶことがどのような実を結ぶか、
よく知っているからです。
もしも神様の御言葉のそばに留まり、
御言葉と付き合い、
御言葉を自分なりの力で抱きしめるなら、
あなたは、キリストがあなたと共にいて、
心に火をともしてくださることを見ることになるでしょう。
最善のやり方は、
数人で御言葉について話し合い、
御言葉の活きた声を聞くことでしょう。
そうするとき、
あなたがたは大いに強められ、
悪魔は逃げ出すほかなくなります。
そして、あらゆる邪悪な欲望と考えは消え去り、
誰も知らなかったような光と理解力が与えられます。
今の私たちの態度のどこがいけないのでしょうか。
それは、
愚かな私たちがこのように尊いもの(御言葉)を部屋の中にしまいこみ、
それを用いようとは考えもしなところです。
悪魔は私たちを騙して、
怠惰という誘惑によって御言葉から引き離そうとします。
そうしなければ、
私たちを御言葉から引き離すことはできないからです。
そういうわけですから、
悪魔の悪質な策略に対して対抗するために
身を整えようではありませんか!
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
使徒言行録 10章43節
また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」(使徒言行録 10章43節)
意義深い聖書の読み方をしたいなら、
聖書からキリストをさがしながら読みなさい。
そうすれば、本当に永遠の命が見つかります。
キリストが私やすべての人のために天からくだり、
人となり、苦しみ、死に、葬られ、
死者の中からよみがえり、天にのぼられたのは、
私を神様と和解させ、罪の赦し、恵み、義、永遠の命を
私のために確保なさるためでした。
モーセ五書や預言書[1]を読むときにこのことを学ばないなら、
いくら聖書を読んでも無駄です。
聖書について豊富な知識をもつ専門家になって、
他の人に聖書について語れるようにはなるかもしれませんが、
それは自分自身にとっては何の役にも立ちません。
人は、キリストを見つけもせず知りもしないかぎり、
救いの幸せや永遠の命も見出しません。
代わりに見つかるのは、死です。
「天の下に、人々の間に、私たちに救いをもたらす名前は、
(御名の)他には与えられていない」、
と神様が聖書でお定めになったからです(「使徒の働き」4章12節)。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
[1] 「モーセ五書」とは旧約聖書の最初の五冊の書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を指します。
「モーセ五書と預言書」とは、旧約聖書全体を指している言葉です。