タグは ‘自分を正しく知る’

ペトロの手紙一 4章1~2節

キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。(ペトロの手紙一 4章1~2節)

自分のせいかあるいは他の人のせいで私たちに降りかかる不幸も、さらには私の悪い行いも、結果的に私たちの最善となるように役立つことになります。どのようにしてそうなるのか、あなたは訊きたいかもしれません。それは、神様を大切にする正しい人が自分の罪深さを見て恥じ入り、より熱心に心を込めて祈るべく、神様に助けを求めてへりくだることによって、そのようになっていくのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ガラテヤの信徒への手紙 2章16節

けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。(ガラテヤの信徒への手紙 2章16節)

もしも私たちが正しく明瞭に義認の教理1を理解しているならば、私たちには真の天の太陽があることになります。しかし、もしも私たちがこの教理を失うならば、私たちに残されるのは地獄の暗闇だけです。良心の平和を保証するこの教理が揺るがず傷つかずに存立し続ける限り、クリスチャンはこの世のあらゆる教えや支配者や法律を裁きさえする立場にあるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)


正しいキリスト教の教えは、
自分はよい行いがひとつもできない罪人だと、
律法によって人に知らせることから始まります。
律法はこう言います、
「お前は悪い木だ。
お前が考えること、話すこと、行うことはすべて、神様に反抗している。
お前は自分の行いによっては、恵みを報酬として受け取ることができない。
お前は、どんなに努力してみたところで、
さらに悪いことを行うようになるだけだ。
なぜなら、
お前は悪い木であり、悪い実、つまり罪しか実らせないからだ。
信仰からでていないものはすべて罪だからだ」
(「ローマの信徒への手紙」14章23節)。
まずよい行いをし、次に恵みをその行いの報酬として受けようとするのは、
罪によって神様と和解しようと企て、神様を怒らせてしまうようなものです。
律法の教えによって、人が恐れを抱き、へりくだり、
自分の罪の大きさを本当に目にし、
自分自身の中には神様への愛をほんのわずかも見出さないようになった時、
はじめて人は、神様が御言葉において義であることを認めて、
「自分は永遠の死と滅びを受けるのが当然だ」、と告白するようになります。
キリスト教の教えは、
「己の罪を悔い、己を知りなさい」、
という説教によって始まるのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)


もしも救われたいのなら、
救いは行いのおかげではなくて、
私たちが御子を通して活きるようになるために
神様がその独り子を世に遣わされたおかげであることを覚えなさい
(ヨハネの手紙一 4章9節)。
御子は十字架につけられ、あなたのために死なれました。
御子は私たちの罪を御自分のからだで担い、十字架の木へと運ばれたのです
(ペトロの手紙一 2章24節)。
(中略)
律法は、罪人である私たちに対して罪を示し、おそれとへりくだりの心を起こし、
こうして私たちが義とされる用意を整えて、キリストの御許へと追い立てます。
神様は御言葉を通して御自分が優しい父親であることを知らせてくださいました。
神様は、私たちの行いなしに
(私たちは自分の行いによっては恵みの報いを受けることができないからです)、
キリストのゆえに、賜物として、
私たちに罪の赦しと義と永遠の命を与えたいと望んでおられます。
ただで恵みの賜物をすべての人に分け与えるのは、
賛美されるべき神様ならではの御性質なのです。
しかし、自分の行いに頼り、賜物を報酬として受け取ろうとする者は、
神様からその栄光を奪ってしまいます。
このような人々を信仰へ導くために、
神様はあらかじめ律法を与えなさったのでした。
それは、律法があたかも稲妻や雷鳴のように、
実に硬い「岩々」を恐れさせ、砕くためなのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)


人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。(ガラテヤの信徒への手紙 2章16節より)

神様は人間に対して怒りを鎮めてくださいました。
これは、人にとって高貴で偉大なことです。
神様の聖なる怒りを鎮めるためには、
モーセの律法や私たちの意志とは
まったく異なる仲介者が必要です。
さらに、彼らが「神の愛」と呼んでいる
あの類の恵みとも違うものが必要です。
私たちは、
信仰により心で受け入れたキリストという宝物を
自分のものとして所有しさえすればよいのです。
どれほどひどく自分が罪にまみれていることを
自覚している場合であっても、これは変りません。
このメッセージは含蓄に富んでいます。
律法の行いによってではなく、
キリストへの信仰によって義とされるということは、
空虚でも無力でもない御言葉です。
しかし、
自分の賢さを過信している人々は、
それを無力な言葉とみなし、
さっさとその前を素通りしてしまうのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ルカによる福音書 22章61~62節

主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(ルカによる福音書 22章61~62節)

自分を正しく知り、高慢にならないために、この例を心に刻みなさい。私たちが自分自身の悪さを自覚するためには、ある人(ここではペトロ)の罪が他の人を悔い改めへと導くものにならなければならないことがしばしばあるものです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者