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コリントの信徒への手紙一 1章31節
「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。(コリントの信徒への手紙一 1章31節)
信仰者は皆、次のように考えなさい、
「主よ、もしもあなたが私のことを裁判にかけ、
私の生活と仕事を見たいと望まれるのでしたら、
私は、たとえ自分が洗礼者ヨハネのような存在であったとしても、
あなたの御前で耐えることができないでしょう。
あなたがその憐れみにより与えてくださったものを、
私が受け取るだけでは十分ではありません。
ここで大切なのは、真に霊的な生活だからです。
しかし、私は自分をあなたの義しい僕として誇ることができます。
それは、あなたが私に休みなく御自分の賜物をくださるからであり、
また、アブラハムに約束なさったように、
あなたは私に対してもキリストを通して憐れみ深くあることを、
約束してくださったからです。
もしも私が自分では義しくないとしても、この方は義であり、
私が聖でないとしても、この方は聖です」。
(中略)
イエス様は、私たちが、自分自身によってではなく、
イエス様によって、またイエス様を通して、
自分たちが聖であり義であることを誇るよう望んでおられます。
もしも私たちが自分のことを誇らなければならないとしたら、
私たちの状況は絶望的なものでしょう。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
マルコによる福音書 16章19節
主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。(マルコによる福音書 16章19節)
このことは私たちのうちに救いの喜びに満ちた「誇り」を今にでも生み出すはずです。なぜなら、私たちはあらゆる被造物や天使たちよりも上位に、高貴な地位を与えられており、私たち自身と骨肉の関係にあるお方が神様の右にお座りになって、すべてを支配しておられることを、私たちは本当に誇ることができるからです。このような栄光は他のどんな被造物や天使にさえも与えられてはいません。それはまた、私たちにとって、私たち人間をひとつに溶かし私たちに燃えるような兄弟愛を与えるような「オーブン」でなければならないはずのものです。
(マルチン・ルター、宝石箱)