新約聖書

ペトロの手紙二 3章17~18節

愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。(ペトロの手紙二 3章17~18節より)

「キリストが私たちのために死んでくださった」とはどういう意味か、学び、進歩し、成長するために、本気で戦いなさい。この真理が、空っぽのあぶくのように舌の上に留まるだけではなく、あなたがたの心に深く染み入って慰めを与え、勇気付け、行動へと導くようになるためです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ペトロの手紙二 1章20節

何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。 (ペトロの手紙二 1章20節)

私たちは畏れとへりくだりの心を持って
神様の御言葉を読まなければなりません。
自分自身の賢さに頼って御言葉を説明しようとしてはいけません。
自分の賢さほど、私たちの妨げとなる有害な罪は他にありません。
御言葉を軽々しくあしらってもいけません。
聖書を読んでいて、もしも理解できない考えに出会ったなら、
帽子を外して敬意を表し、その先を読み続けましょう。
御言葉を侮ってはいけません。
人間の理解に合ったやり方で説明付けてもいけません。
御言葉には最大限の真摯さをもって接するべきであり、
御言葉を尊敬し、貴重なものとみなすべきです。
もしも気の向くままに御言葉に評価を下す態度を取るなら、
私たちは自己欺瞞に陥って窮することになります。
「自分の賢さ」という沼に沈んでいく者を、
そこから助け出すのは、容易なことではありません。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ペトロの手紙一 5章9節

信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。(ペトロの手紙一 5章9節より)

私は自分の中にある罪についても聖についても知りません。私の中には何もありません。まったく何もないのです。私が知っているのは、キリストの義と神様の力のみです。私がもっているのは、キリストが与えてくださるものです。悪魔は、罪についても聖についても自分のもとで人生の清算をしようとはしない魂の持ち主を見たときに、なんと思うでしょうか?それにできることといったら、何もない畑を耕すことだけです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

詩編 55編23節、ペトロの手紙一 5章7節

あなたの重荷を主にゆだねよ
主はあなたを支えてくださる。
主は従う者を支え
とこしえに動揺しないように計らってくださる。
(詩編 55編23節)

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。(ペトロの手紙一 5章7節)

私たちが「主に投げゆだねる」という方法をよく学ぶなら、主が私たちの世話をしてくださることを確かに経験することができるでしょうに。
しかし、この方法を学ばない人は、捨てられ、隅々まで痛めつけられ、だめになり、倒れてしまいます。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ペトロの手紙一 5章5節

なぜなら、
「神は、高慢な者を敵とし、
謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。
(ペトロの手紙一 5章5節後半)

神様は、弱さを忍ばれますが、軽蔑という悪については忍耐なさいません。ただおひとり力に満ちた御方である神様に、私たちが自分たちの弱さを告白するのは、神様の栄光となります。しかし、私たちが神様を軽んじて、御言葉や尊い福音を無視するような悪を、神様は我慢なさいません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ペトロの手紙一 4章17~18節

今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。「正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。(ペトロの手紙一 4章17~18節)

すべての肉(つまり人間)はいつか自分に下される「裁き」を聞くことになります。それは、罪の赦しという「恵みの裁き」か、あるいは「滅びの裁き」かのどちらかです。そしてキリストが世に宣告なさった裁きは決して変更されることがありません。「信じて洗礼を受ける者は救われることになります。信じない者は滅びへと裁かれることになります」(「マルコによる福音書」16章16節)。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ペトロの手紙一 4章12節

愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。 (ペトロの手紙一 4章12節)

隣人や町全体、さらには世界全体が
私たちクリスチャンとは違う生き方をしている場合であっても、
偉大な人々、優れた人々、
富裕な人々、権力のある人々までもが
それに同調している場合であっても、
私には彼ら以上に偉大な友がいます。
それは、キリストとその御言葉です。
私はひとりで歩んでいても、実はひとりではありません。
なぜなら、
私には神様の御言葉があり、
私のところには
キリストと
すべての善き天使たちと
この世の始め以来聖なる人々全員が
共にいるからです。
そういうわけで、私の周囲には、
この世のほかのどこにもないような偉大で高貴な交わりの場があります。
たとえ私がそれを目で見ることはできず、
大多数の人々が私から遠ざかったり、
(クリスチャンの)私とは違う生き方をしていても、
それは変わりません。

十字架の下で過ごすこの人生は、
私に対して敵を作るばかりです。
このことを知らないか信じない人は、
キリストの十字架の御跡に従って正しい生き方を始めなさい。
そうすればその人は、
全世界がその人に敵対しており、その人を侮蔑し、
愚かな流浪者、悪い人間として迫害してくることに、
まもなく気が付くことでしょう。

キリストの御国が来る時には、
それに伴って聖なる十字架もやって来ます。
それは、その十字架と通して信仰が鍛えられていくためです。
十字架のもたらす「悲嘆」は実は、
「新しい人」が生まれ「古い人」が消え去っていくような
「誕生」なのです。
 
主は、
御自身が担われた十字架を私たちも担うように、
とは命じておられません。
そうではなく、
皆がひとりひとり自分自身の「十字架」を担うようにと、
主は言われています。
人にはそれぞれ、自分の力に応じて、
(その人に合った)十字架が用意されています。
なぜなら、
私たちは信仰や霊的なことがらに関して同じではないので、
皆が同じことを苦しむことができないからです。

(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)

ペトロの手紙一 4章11節

語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。(ペトロの手紙一 4章11節より)

上手に語る賜物があまりない者が、美しく語る達人と比べて、神様の与えてくださった御言葉を「より下手に」語るということはありません。あなたの(この世の)父も、天使ガブリエルと同じように語ります。いろいろな器がある、というちがいがあるだけなのです。ある人は銀の器であり、またある人は錫や粘土の器です。しかし、器はこの世的なものです。同じ食事を同じように錫の器にも銀の器にも盛ることができます。そして、周到にこしらえられた食事は、錫の器で食べても銀の器で食べても、同じように美味しくいただけます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ペトロの手紙一 4章1~2節

キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。(ペトロの手紙一 4章1~2節)

自分のせいかあるいは他の人のせいで私たちに降りかかる不幸も、さらには私の悪い行いも、結果的に私たちの最善となるように役立つことになります。どのようにしてそうなるのか、あなたは訊きたいかもしれません。それは、神様を大切にする正しい人が自分の罪深さを見て恥じ入り、より熱心に心を込めて祈るべく、神様に助けを求めてへりくだることによって、そのようになっていくのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ペトロの手紙一 3章14節~15節

しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。
心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。
(ペトロの手紙一 3章14節~15節)

不幸な出来事で苦しめられていても、「神様に賛美と感謝あれ!」と言えるときには、私たちは主キリストを心の中で聖とあがめています。私たちは神様を聖なる方として賛美しなければなりません。神様の御言葉を信じるときに、私たちはそうしてます。私たちが正義のために苦しむときに、神様は私たちをお見捨てにはなりません。憐れみをもって私たちと共に歩み、私たちを助け、私たちの敵に復讐してくださいます。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ペトロの手紙一 2章21節

あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。(ペトロの手紙一 2章21節)

すべてのクリスチャンの受難は、今日もまたキリストの受難に隠され、覆われ、その無垢さによって飾られなければなりません。私たちは、全キリスト教会と共に「私たちの罪を赦してください」と告白しつつ、罪の赦しの信仰告白を祈らなければなりません。私たちの受難は、たとえそれが最も悪く大きく難しいものだとしても、キリストの御跡にはるか後ろから従うことにほかならないからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ペトロの手紙一 2章16節

自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。(ペトロの手紙一 2章16節)

クリスチャンは次のように言ってはいけません、「律法から自由になっているのだから、自分のやりたいことを私は今やるんだ」。クリスチャンはそれとは正反対の仕方で話しまた行動しなければなりません、すなわち、今の自由の状態から、かつて律法や神様の怒りの下で苦しめられていた罪の奴隷状態へと逆戻りしたり、命から死へとふたたび落ち込んだりしないために、クリスチャンとして罪を恐れて避けなければなりません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ペトロの手紙一 2章2~3節

生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。(ペトロの手紙一 2章2~3節)

心で信じるときに私は、「キリストが御自分を私に贈って、私のものになってくださった」ことや、「私の不幸はキリストのものであり、キリストの命は私のものである」ことを味わい知ったのです。このことは、心がそれを知るときに本当に美味しく感じられます。そして、それは深い喜びをもたらすのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ペトロの手紙一 1章24~25節

人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。(ペトロの手紙一 1章24~25節(前半))

この世は、偽りの信仰を誇るか、信仰をもたずに聖でありすぎるか、いつもそのどちらかです。もしも私たちが「信仰と神様の恵み」について説教すれば、もう誰もよい行いについて知りたいとは思わなくなってしまいます。もしも私たちが「よい行い」について話せば、もう誰も信仰について気にかけなくなってしまいます。黄金の中道を歩む者はまれです。その道は真のクリスチャンにとってさえ困難です。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ペトロの手紙一 1章15~16節

召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。(ペトロの手紙一 1章15~16節)

私たちは今、あらゆる面で聖くなった者が存在するかどうかについて話しているのではなく、「そのような者になるように努力しなさい」と真剣に忠告しているのです。間違ったことをせず、行うべき事をきちんと行い、汚れがなく、聖い生活を送っている者は、この世には決して見当たりません。もしもそのような人がいたとしたら、「主の祈り」は偽りになることでしょう。なぜなら、イエス様はその祈りの中で、聖なる者が皆、「私たちの罪を赦してください」と祈るように教えておられるからです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ペトロの手紙一 1章5節より

あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。 (ペトロの手紙一 1章5節より)
 
ペトロはこの御言葉で次のことを意味しています。
信仰は、私たちの中で働く、尊い神様の力であり、
救いにかかわる正しい考え方を私たちにはっきりと与えます。
そのおかげで私たちはこの世のことについて正しく判断してこう言えるのです、
「この教えは正しい、あの教えは間違っている。
この生活は正しい、あの生活は間違っている。
この行いはよい、あの行いは悪い」。
信仰をもっている人が判断することは正しく真理にかなっています。
なぜなら、
そのような人は、だまされることなく、守られており、
すべての教えを裁く者だからです。
それとは逆に、
信仰やこの神様の力がないところには、迷妄と盲目があるのみです。
そこでは、人は行いから行いへと駆けずり回ります。
理性はいつでも行いによって天国に入れてもらえることを願っており、
「ほら、この行いはあなたを天国へと導くよ。
やりなさい。そうすれば救われるよ」、
とささやくからです。
こういうことから、この世に修道院などが生まれてきたのです。
神様は、不信仰な者が行いに頼るのをほうっておかれますが、
一方では、信じている私たちのことを、
地獄へ落ちることなく救われるようにと、
正しい考え方にとどまらせてくださいます。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ペトロの手紙一 1章4節

また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。 (ペトロの手紙一 1章4節)

私たちはわざわざ購入しなければならないような
品物や遺産を待ち望んでいるのではありません。
私たちのためにすでに用意されている、
朽ちることも消えることもない遺産をいただく希望をもって、
私たちは生きています。
目には見えないけれども、それが私たちの永遠の持ち物なのです。
このことをしっかりと覚えておくならば、
この世での快適な生活に関してさほど心を悩ませることもなくなるでしょう。
この世の持ち物は、あっという間に汚れ、なくなりますが、
天国の持ち物は永遠に保たれ、朽ちることがありません。
さらに、この世の持ち物はすべて人を汚します。
この世の持ち物によって堕落しないほど
義しい人はこの世には一人もいないからです。
完全に清いのは天国の遺産だけです。
それを所有している者は永遠に清いままです。
この世の持ち物には必ず飽きが来ます。
しかし、天国の持ち物に飽きることはありません。
これらすべては、
キリストにあって神様の憐れみにより私たちに提供されており、
私たちは信じさえすれば、プレゼントとして「ただ」でいただけるのです。
人間の理性や心には理解できないほどこの大きな宝を、
「自分の行いの報い」として受けることができる、
などとどうして言えましょうか。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)

ヤコブの手紙 5章19~20節

わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。(ヤコブの手紙 5章19~20節)

神様は隣り人に私たちを通して仕えることを望んでおられます。神様は私たちの宣教と生活を通して彼らを信仰に導きたいと思われています。神様は御自分の天使たちを通してそれを行うことができるのに、あえて人間を通して行われるのです。それは、信仰がそれだけいっそう力強くまた素晴らしいものとなるためなのです。もしも天使たちが私たちのところに絶え間なく訪れるならば、信仰はもはや必要ではなくなることでしょう。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヤコブの手紙 5章7~8節

兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。(ヤコブの手紙 5章7~8節)

神様はすべてのクリスチャンを「忍耐と慰めの学校」にお入れになります。この学校では、私たちはいつも学びの途上にあり、すべてをすっかり学び終えるようなことは決してありません。聖書は悲惨や苦しみや死を消し去ったりはしません。そのため、忍耐が必要になるのです。しかし、聖書は苦しみの只中にある私たちを慰め強め、倦まず弛まず私たちが前進できるように助けてくれます。私たちが勝利を得る時までずっとです。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ヤコブの手紙 4章15節

むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。(ヤコブの手紙 4章15節)

たとえ仮にあなたが全世界を悔い改めさせ、生き返らさせ、死なせ、自分や他のすべての者を天国へと連れて行ったり、奇跡を行うことができるとしても、あなたが神様の御心をそれよりも大切なものとは見なさず、自分の意志を捨てて神様の御心に従わせ、「神様、これは私にはよいことだと思われますので、もしもそれがあなたの御心に適うならば実現しますように。もしも御心に適わないならば実現しませんように」、と言うつもりがないならば、あなたはそのようなことを望むべきではありません。
(マルチン・ルター、宝石箱)

ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

マルティン・ルター
1483年~1546年
神学者、牧師
宗教改革の創始者