新約聖書
コロサイの信徒への手紙 3章20節
子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。(コロサイの信徒への手紙 3章20節)
信仰と愛をもちつつ両親や上司の言うことに従って、床を掃いたり地面から藁を集めたり、といった些細な仕事を行ったとき、実はあなたは神様のお目には、神様の御命令もなしに行われる奇跡の力で全世界を信じ込ませることよりもはるかに偉大なことを行ったのです。あなたの行いがこれ以上清潔で聖くありえましょうか。さらに神様は「すべてがあなたの最善になる」と保証くださっています。あなたには、あらゆるよきこと、喜びに満ちた良心、保護と守り、また百倍もの報酬を与えてくださる恵み深い神様が共におられるのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
コロサイの信徒への手紙 3章17節
そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。(コロサイの信徒への手紙 3章17節)
感謝と賛美。これらこそ、私たちが神様に差し上げることができるよいものです。ここに真の礼拝があります。神様御自身が次のように告げてくださっている通りです、「感謝をささげる者は私を敬っています。正しい道に留まっている者は、どのように神様が救ってくださるか、見ることができます」(詩編50編23節)。私たちが神様にこのような感謝のささげものをするために、神様は私たちによいものをすべて与えてくださっているのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
コロサイの信徒への手紙 3章16節
キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。(コロサイの信徒への手紙 3章16節)
パウロはここで、教えるという職務にすべてのクリスチャンはかかわりをもっていることを示しています。彼がこう言っているとおりです、「互いに教え合いまた訓戒し合いなさい、すなわち、公の説教職以外の交わりのなかでも、互いに訓戒し合い、また自分自身を戒めなさい。それは、神様の御言葉があらゆるところで、公的にも私的にも、一般的にも個人的にも、活用されていくようになるためです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
コロサイの信徒への手紙 2章9~10節
キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。(コロサイの信徒への手紙 2章9~10節)
キリストは信仰者たちに言われます、「信仰を通してあなたたちは、罪や死や不幸の只中にあっても、私の中にいるのです。確かにあなたたちは罪人ですが、私の中にあっては義人であり、死を身近に感じているのに、私の中においては命をもっており、平和がないにもかかわらず、私の中においては平和があり、罪人として裁かれた者なのに、私の中においては祝福されており、救いの喜びに満たされています」。
(マルチン・ルター、宝石箱)
コロサイの信徒への手紙 2章6~8節
あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。(コロサイの信徒への手紙 2章6~8節)
私はたしかに聖書の博士ですが、子供の信仰、主の祈り、洗礼、聖餐を深く研究すればするほど、よりよくそれらの素晴らしさが味わえるようになる、と告白したいと思います。
(マルチン・ルター、宝石箱)
コロサイの信徒への手紙 1章20節
その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。(コロサイの信徒への手紙 1章20節)
キリストは天からくだり、
神様についてありとあらゆるよいことを
私たちに語ってくださいました。
つまり、御父様が私たちの罪をすべて赦して、
私たちを御自分の子供としてくださったということです。
御父様はいまや私たちの愛する父親であり、
私たちに対して平和な思いをおもちです。
イエス様は再び御父様のみもとへ行って、
神様に私たちについてありとあらゆるよいことを
こう話してくださいました、
「お父さん、彼らにはもう罪がありません。
私がそれを自分の上に引き受けて、取り去ったのです」。
このように、イエス様は
父なる神様と私たちとの間に、
また神様とすべての被造物との間に、
平和をつくってくださったのです。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
コロサイの信徒への手紙 1章12~14節
光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。(コロサイの信徒への手紙 1章12~14節)
福音は私たちに、死から命への救いと、罪から義への救いを、また、地獄やあらゆる悪からの贖いを宣べ伝えています。福音は私たちを暗闇の国から神の国へと移してくれます。これらすべてはあまりに偉大なことなので、使徒は自分がそれを言葉で表現できるとは思っていません。これ以上的確にはその偉大さを表現できないほど素晴らしく語っているにもかかわらず、彼はそう言っているのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
コロサイの信徒への手紙 2章3節
知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。(コロサイの信徒への手紙 2章3節)
神様がお命じになっていることがらについて、
私たちは自分の知恵に頼って従おうとしてはいけません。
むしろ私たちは、
「もしも私には神様の律法が間違っていると感じられるなら、
それは、神様の知恵を理解できない私自身の愚かさのせいだ」、
と考えるべきなのです。
命と死とは、互いに互いを包み込んでいます。
命は死の中にあります。
不幸は大きな幸福の中にあります。
同じように、
貧しさや惨めさの中に豊かさや喜びがあります。
一方では、
一番安全なはずの生活の中にも、
一瞬にして死が待ち構えています。
私たちは死ぬ時に、
あたかも永遠に死んだままであるかのようにして、
死んでいきます。
しかし、
一瞬のうちに「最後の日」が来て、
「今から私は永遠に活きる」、
と言えるようになります。
「どのように主は私たちを引き下げ、また引き上げてくださるか」、
また、「すべて主の御言葉の通りになる」、ということを、
主は私たちに多くの実例を通して示されました。
それは、
私たちが自分の知恵によっては何も行わず、
すべてを主にゆだねるようになるためです。
何事も私たちの考えや計画通りにはならないことを、
私たちは皆、生活の中で経験し知っているはずです。
主は、私たちを豊かで強く義しい者としようとなさるときに、
良心が咎める、貧しく見捨てられた罪人になさいます。
それはまるで、
あらゆる点で主の与えてくださった約束が消えうせてしまった
かのようです。
このような主のやり方を理解する者は、さいわいです!
神様の御言葉は二通りの異なったやり方で用いられます。
まず第一に、それは一般的に公けに用いられます。
例えば、神様をないがしろにする者たちでさえ、
御言葉を聞いたり読んだりします。
しかし、これは「殻」にすぎません。
彼らには「殻の中身」がないのです。
その中身とは、キリストの御受難がもたらした恵みと実と益のことです。
キリストの御受難のもたらす益については、彼らは何も知りません。
なぜでしょうか?
それは、彼らは自分が罪人だということを認めたくないからです。
彼らは、キリストの御受難について
口先ではまことしやかに語ることができるのに、
それをちっとも理解していないのは、そのためです。
キリストは罪人のためだけに苦しまれたのです。
もしも彼らに、
「キリストはあなたのためにも苦しまれたのです。
つまり、あなたも罪人なのですよ」、と言っても、
彼らはそれを受け入れません。
神様の御言葉を用いる第二のやり方は、次の通りです。
義とされた信仰者は、
御言葉を表面的に用いるだけではなく、
ちゃんとその意味を理解します。
なぜなら、主の奥義が彼らに対して啓示されているからです。
キリストは、
「私たちはその人のもとに来て、そこに住むでしょう」、
と言われます(「ヨハネによる福音書」14章23節より)。
三位一体なる主は、
そのような魂の持ち主に聖書の奥義を明らかにし、
彼らがそれらを理解できるようにしてくださいます。
神様は、私たちを死なせずに、活きる者となさいます。
神様は、私たちを裁かずに、救いのさいわいを賜ります。
神様は、嘆き打ち砕かれている心を憎んだり見捨てたりはせず、
愛を込めて配慮されます。
なぜなら、神様は、
命と救いと平和と喜びと慰めの神様だからです。
「神様がキリストを通して恵みを示そうとされていることを、
苦しみの最中でも信じ続ける心こそ、
神様が喜ばれる最上の捧げ物です」、
と預言者は語ります。
そして、心が嘆き悲しんでいる人皆を慰めます。
私たちがこうした心を神様に捧げるようになるために、
主はよく疫病、飢饉、戦争、その他の不幸を送られます。
それは、
私たちがより敏感に神様を捜し求め、
不幸の時にも幸福の時にも
神様から助けを願うようになるためです。
(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)
フィリピの信徒への手紙 3章20節
しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。(フィリピの信徒への手紙 3章20節)
クリスチャンは自分の所属する家やグループや王国をこの世以外のところにもっています。あなたがたは、クリスチャンとして歩む者として、この世的な不幸がもはやなく永遠の平和の中で生きていくことができる天の御国へ思いを向け、そちらへと歩んでいきなさい!
(マルチン・ルター、宝石箱)
フィリピの信徒への手紙 3章7~9節
しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。(フィリピの信徒への手紙 3章7~9節)
すべてのクリスチャンはパウロと共にこう言うべきでしょう、「自分の聖さによって、恵みと永遠の命を報酬として得ようとすることは、神様の御前では、汚らしい着物に等しい」。
(マルチン・ルター、宝石箱)
フィリピの信徒への手紙 2章8節
へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピの信徒への手紙 2章8節)
真の謙虚さは、謙虚さとは何か知らないものです。
もしも知っていたならば、
そのように大きな(自分の)美徳について高慢になってしまうことでしょうから。
しかし、
偽りの謙虚さは、自分が高慢であることを決して知るようにはなりません。
もしもそれを知っていたならば、
自分の高慢を憎んで、たちまちのうちに謙虚になったことでしょうから。
神様の知恵は、
高慢な人々に対しては、たんに外面的な現象としてあらわれます。
しかし、
謙虚な人々に対しては、内面的な真理や隠された基盤としてあらわれます。
人は、自分の救いが、
自分自身の力や助言や懸命な努力や意志や行いの決して及ばない
「外部」にあることと、
「他の存在」、すなわち唯一なる神様、の自律や助言や意志や行いに
全く依存していることとに気が付くまでは、
自分自身を心底から謙虚にはできません。
私を謙虚にし、
自分が取るに足らない存在であることを教えてくれることを、
私は自分の内に十分すぎるほどもっています。
しかし、神様の内では、私たちは誇りをもつべきだし、
神様の与えてくださる様々な賜物について大いに喜び、
誇りをもって周りの人たちに語るべきです。
皆の中で最悪に高慢な者だけが、
自分を謙虚だとみなし、それを誇って言いふらします。
畏れと謙虚さがなくては、誰も神様を喜ばせることはできません。
キリストほど、自分を深みへと下降させた方は誰もいないし、
キリストほど、自分を取るに足りない者とみなした方は誰もいません。
それゆえ、イエス様だけが次のようにおっしゃれるのです、
「私から学びなさい。
なぜなら、私は静かで謙虚だからです」。
このような言葉は、
キリスト信仰者の誰一人として、口にしたことはないし、
また言ってはいけないものです。
誰一人として、
イエス様のような最高級の謙虚さと静けさを身に着けた者はいません。
この唯一の師に対しては、誰でも弟子の立場に留まるほかありません。
(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)
エフェソの信徒への手紙 6章17~18節
また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。(エフェソの信徒への手紙 6章17~18節)
教会を維持しているのは、忠実な教え、熱心な祈り、真の苦難です。この世は「平和の王国」を、表面的には平和にみえる雰囲気の中でことが円滑に運ばれうまくいくところに見出します。ところが、「恵みと救いの王国」は、上の聖書の箇所に挙げた教会を教会たらしめる「しるし」に基づいて見出されるものです。たとえ教会が表面的には世の「平和の王国」とは正反対に見えることがしばしばあるとしても、そうなのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
エフェソの信徒への手紙 6章11節
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。(エフェソの信徒への手紙 6章11節)
福音と聖書をよりいっそう熱心に研究するために、
それを自分の前に置きなさい。
たとえあなたが
それを前からよく知っていたり、しばしば読んできたとしてもです。
悪魔はあなたから
神様の御言葉を学ぶ意欲と研究する時間を与えまいとします。
しかし、それは疑いようもなく
悪魔があなたの心に吹き込んだわなです。
なぜなら、悪魔は、
御言葉を学ぶことがどのような実を結ぶか、
よく知っているからです。
もしも神様の御言葉のそばに留まり、
御言葉と付き合い、
御言葉を自分なりの力で抱きしめるなら、
あなたは、キリストがあなたと共にいて、
心に火をともしてくださることを見ることになるでしょう。
最善のやり方は、
数人で御言葉について話し合い、
御言葉の活きた声を聞くことでしょう。
そうするとき、
あなたがたは大いに強められ、
悪魔は逃げ出すほかなくなります。
そして、あらゆる邪悪な欲望と考えは消え去り、
誰も知らなかったような光と理解力が与えられます。
今の私たちの態度のどこがいけないのでしょうか。
それは、
愚かな私たちがこのように尊いもの(御言葉)を部屋の中にしまいこみ、
それを用いようとは考えもしなところです。
悪魔は私たちを騙して、
怠惰という誘惑によって御言葉から引き離そうとします。
そうしなければ、
私たちを御言葉から引き離すことはできないからです。
そういうわけですから、
悪魔の悪質な策略に対して対抗するために
身を整えようではありませんか!
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
エフェソの信徒への手紙 5章29~30,32節
わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。(中略)この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。(エフェソの信徒への手紙 5章29~30,32節)
キリストは私と共にひとつのからだであり、ちょうど花婿が花嫁にするように、何をお持ちか、何をなさるか、私に知らせてくださいます。夫婦はすべてを、からだを、栄光を、持ち物を、共通のものと見なしています。
(マルチン・ルター、宝石箱)
エフェソの信徒への手紙 5章25~27節
夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。(エフェソの信徒への手紙 5章25~27節)
キリストは言われます、「私の花嫁にかまわうな。もしも彼女に落ち度があれば、私はそれをなおしたい。もしも彼女が十分に美しくもきれいでもないなら、私は彼女を美しく飾り清めます。もしも彼女があなたの気に入らない場合であっても、私が彼女を選びきれいに洗ったから、私は彼女が気に入っているのです。たとえ彼女がまだ罪や死や病気で苦しんでいても、私には義と命とあらゆる永遠の宝物があり、それらによって私は彼女を着飾ります」。
(マルチン・ルター、宝石箱)
エフェソの信徒への手紙 5章15~16節
愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。(エフェソの信徒への手紙 5章15~16節)
神様から離れ去る者は死に支配されるようになってしまいます。神様のみもとに戻らない者は死のもとに留まりつづけることになります。神様なしで命を誇ることはすべて、死を隠そうとすることです。キリストの中にある命をもっていない者は皆、すでに死滅しています。暗闇の中を歩み暗闇に支配されている彼らの中に、どうして命がありうるでしょうか!
(マルチン・ルター、宝石箱)
エフェソの信徒への手紙 5章2節
キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。 (エフェソの信徒への手紙 5章2節)
犯した罪に気がついて心がおびえているときに、
悪魔の大軍が襲いかかり、
脅しの力でキリストのみもとから引き離して絶望させるために、
罪と荒波の「洪水」でおぼれさせようとするとき、
あなたは安心してこう言えばよいのです、
「神様の御子キリストは、
義人や聖人のためではなく、
悪人や罪人のために与えられている」。
私たちは、これと同じような一連の聖書の御言葉によって心を武装しましょう。
私たちを責めて、
「お前は地獄行きの罪人だ」と言い張る悪魔に対して、
次のように答えることができるようになるためです、
「悪魔よ、お前が私を罪人呼ばわりする、まさしくそのゆえに、
わたしは義であり救いの幸せにあずかる者でありたいのだ」。
「そうだ。しかし、お前は厳しい裁きを受けるのさ」。
「いいや、そうはならない。
私の罪を帳消しにするために御自分をささげられたキリストのみもとに
私は保護を求めるからだ。
悪魔よ、
私の罪のひどさをどれほどあげつらっても、
私を恐怖や悲しみや絶望や、神様への怒りや軽蔑や侮りなどに
駆り立てることはできないぞ。
それどころか、
お前は私に、
お前自身へと向けられた武器を提供することになるのだ。
お前が私を罪人だと言うとき、
お前の剣によって、私はお前を殺し滅ぼすことになろう。
キリストはまさしく罪人のために死なれたからだ」。
(マルチン・ルターの旅のお弁当)
エフェソの信徒への手紙 4章1~2節
そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、(エフェソの信徒への手紙 4章1~2節)
この地上で生きる限り私たちは、キリストが私たちを忍んでくださっているのと同じように、お互いに忍耐し合わなければなりません。なぜなら、私たちの中には完全な者などはひとりもいないからです。神様は、私たちがそれに向かって努力してさえいれば、それだけでも満足してくださるのです。御自身がよいと思われたときに、神様は私たちの信仰と愛を強め、私たちをこの世の生活から天国へと一瞬のうちに移してくださいます。
(マルチン・ルター、宝石箱)
エフェソの信徒への手紙 2章8~10節
事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。(エフェソの信徒への手紙 2章8~10節)
クリスチャンのよい行いには名称も時間も場所もありません。それらは、いつどこで彼らが行ったとしても、よい正しい行いなのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)
エフェソの信徒への手紙 1章13~14節
あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。(エフェソの信徒への手紙 1章13~14節)
福音は、神様の恵みの「甘さ」についての愛らしい説教です。太陽光線があらゆるところを暖かくするのと同じように、それが説教されまた聴かれるところに聖霊様を連れてくるほど、それは本当に甘いのです。
(マルチン・ルター、宝石箱)