ヤコブの手紙 4章5~8節前半
それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる。」だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。(ヤコブの手紙 4章5~8節前半)
人間の理性にきれいに調和し喜びを与えるようなやり方を利用して、常に悪魔は忍び寄ってきます。それで、それを信じる者が沢山いるのです。悪魔と戦うためには、御言葉にしっかりと結びついた高度に霊的な理解力が必要です。さもなければ、悪魔の手口を理解することも、打ち破ることもできません。
(マルチン・ルター、宝石箱)
だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。(ヤコブの手紙 4章7節)
どうしてあなたは
不用心に上機嫌で生きていられるのでしょう。
あなたを個人的に攻撃してくる
「この世の暴君」がいるではありませんか。
しかもこの敵は
全力であなたを倒すために武装しているのです。
私たちは普段
あまりにも物事を軽く考えて不用心に生活しています。
あたかも悪魔が弱々しいハエであるか、
あるいはとうの昔に死んでいるかのようです。
あたかも悪魔に対するクリスチャンの戦いが
ほんの些細なことであるかのようです。
悪魔はその手下の小間使いたちと共に
インドやトルコやどこか遠くにいる、
と思ってはなりません。
悪魔はあなたのすぐ近くにいることを知っておきなさい。
悪魔は毎日、
あなたの周りや部屋や、通りなど、
あなたがいるところならどこにでもいるのです。
悪魔は、
私たちがキリストを深く理解するのを妨げ、
私たちがキリストよりも誰か他の友達を
頼ったり信じたりするようにさせる専門家です。
確かにキリストは
一本の指や一言の言葉で悪魔に勝ち、
激怒する悪魔を完全に粉砕することができます。
にもかかわらず、キリストは、
私たちをその仕事に用いたい、と思っておられます。
神様は、
質がよいとは言えない弱い「器」である
私たちクリスチャンを対置することで、
この傲慢で強大な「魂の敵」を侮蔑したいと思っておられます。
この器は、悪魔とくらべれば、嵐に対抗する火の粉のような存在です。
本来なら、嵐は火の粉をひと吹きで消すことができるはずです。
しかし主は、そのような弱い器を通して、
この尊大な敵に勝利し支配することを示されたいのです。
悪魔は自分に対して、
神様が「惨めな手段」(私たちクリスチャン)を対置することに苛立ち、
私たちを陶器のようにいっぺんに粉々に砕こうと、
一番恐ろしいやり方で私たちに襲いかかってきます。
ですから、そのような攻撃に対して、
神様の力によって自らを武装しましょう。
戦いは主のものであることをわきまえつつ。
次のようにして、悪魔は私たちに襲いかかってきます。
悪魔は自分の毒を元に「おいしい食事と薬」とを作り出し、
それとは反対に
健康によいはずの薬を元に「殺すような毒」を作り出します。
悪魔は悔い改めようとはしない者たちを
罪の中でいっそう不用心にし、
偽りの慰めにいっそう頼るように仕向けます。
その一方で悪魔は、
貧しく悲しんでいる心の持ち主たちを、
本来なら彼らの慰めであり喜びであるはずのことがらによって、
逆に心配するように仕向け、おびえさせます。
悪魔と言い争うのはやめなさい。
倦むことなく目を主に向けなさい。
神様が教会をお建てになると、
その傍らに悪魔はチャペルを建てるものです。
悪魔は次のような考えを吹き込むことによって
私の祈りを邪魔しようとしたものです。
「なぜお前は祈ろうとするのか。
お前は自分が誰で神が誰だか知らないのか。」
しかし、私は神様の恵みによって力づけられ、
悪魔が私に対して争ってくるときに、
もはや悪魔から身を避けたりはしなくなりました。
それどころか、
聖霊様のお助けによって
悪魔をその自分の剣によって追い出しました。
私はそのときこう言ったのです、
「悪魔よ、お前は「私が罪人だ」ということを理由に挙げて、
私から祈る勇気を奪おうとしている。
しかし、私が祈らなければならない理由は、
まさしく私がひどい罪人で、
神様の恵みと憐れみとを心から必要としている、
ということにあるのだ」。
自分を捨てて、「神様の右手」にしっかりとつかまっていなさい。
そうすれば、魂の敵はひどい誤算に陥ります。
つまり、悪魔が脱穀にかけようとした麦は実はからっぽだった、
ということになります。
こうなる理由は私が次のように言えるからです、
「私は自分の中に何も望まない。私の力は完全に主の中にある」。
このような態度をとるときに、私は
自分自身から、また私に属するあらゆるものから
完全にきれいにされています。
そして私はこう言えます、
「何をあくせくやっているのだ、悪魔よ。
お前は私の中にどんなよきわざがあるかを探っているのか。
そして私の聖さについて神様の御前で私を責めようというのか。
私にはよきわざも聖さもありはしない。
私にあるのは主の力だ。
それに対しては好きなだけ戦いを挑むがよかろう。
私は自分自身の中には罪も聖さも知らない」。
しかし、
もしもあなたがこのような防御のやり方をやめてしまう場合には、
悪魔は罪やよきわざを拠点にしてあなたをつかまえてしまいます。
もしもあなたが悪魔に屈従しその言うことを聞くならば、
悪魔はあなたにやりたい放題のことをします。
そのときあなたは神様を忘れ、見失ってしまいます。
そして「神様の右手」も他のあらゆることもなくしてしまうのです。
あるとき「魂の敵」が私のところへ来てこう言いました、
「マルティン・ルターよ、お前はひどい罪人だ。
お前は地獄に落ちるぞ」。
「ちょっと待て!」、と私は言いました、
「ひとつずつ物事は扱うべきだ。
私はひどい罪人だ。それはその通りだ。
もっともお前には私にそのようなことを言う資格はないわけだが。
私は自分が罪人であることを告白するよ。
しかし、だからなんだというのだ?」。
「そのためにお前は地獄に落ちるのさ!」。
「これは正しくない話だ。
私が罪人であるのは本当だ。
しかし、聖書にはこう書かれている、
「キリスト・イエスは罪人を解放するためにこの世に来られた」。
それゆえ、私も救われるのだ。
さあさっさとどっかに行くがいい!」。
こうして私は魂の敵をやりこめて、
それ自身の剣を利用して私のもとから追い払いました。
魂の敵は、
「ひどい罪人だ」と言うことで私を絶望に陥れる目論見が外れて、
怒り狂いながらも、すごすごと立ち去るほかありませんでした。
(マルチン・ルター、信仰生活アドヴァイス)